無意識日記々

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リリックスクランブル

ジャンルとしての孤立感が、あるのかどうか。twitterでヒカルのファンだという人のProfileをみるたびに、その統一性のなさにはてと困り果てる。この音楽が好きな人なら、という法則がまるで通用しない。今や流行りものでもないから、好きだと云ってくれる人にフェイクはありそうもないし。

多いのは、久しぶりに聴いてみたらやっぱりイイという声である。今の時期は普段メディアで取り上げられる機会が少ない為、そもそもヒカルを聴こうというキッカケがない。ふとした事で耳にすると、見直される。復活した時には、そこらへんを擽るとうまくいく気がする。

海外では、Utada Hikaruのファンで多いのは"J-porカルチャー"自体に関心がある層のようだ。中身云々より前に、それが日本からである事でアンテナに引っ掛かる。日本の場合、日本語という特殊性があるから日本出自という特性自体が中身云々でもある訳だが。

つまり、日本では"宇多田ヒカル"というそれひとつで独立したジャンルであり、ヒカル自身が動かなければ何も始まらない。海外では、日本文化の一環としてみられるから、逆に日本記録保持者としての知名度の威力はずっと通底している。まぁそれは日本もある程度そうだけど。

この"ジャンル分け"は、そのまま日本語詞と英語詞の違いでもある。特に後半は、自分自身を掘り下げるアプローチが多くなった日本語詞。日本語という特性を活かして、応援歌(とそのパロディ)を歌ったりもしたが、最後は『誰もいない世界へ』となった。自己の追求とはeverybodyにとってthe sameだからだろう。

英語詞の方は、日本人、アジア人としての自覚を歌ったものが多くなる。日本では"宇多田ヒカル"を追求していればよかったが、海外では拠って立つ音楽ジャンルを選ばなかった為、自己紹介となると国籍、或いは肌の色となる。ファンの方も、日本文化の頂点としてまずUtadaをみたのだ。

となると、復帰後の歌詞がどうなるかが気になる所だ。もし仮に、日本語盤と英語盤を分けずにアルバムを作るとすると、歌詞は宇多田ヒカルとしての私とアジア人・日本人としての私の両方の視点から描かれる事になる。その作風は散漫や分裂になるのか、統一された多様性となるのか。

そもそも、フルアルバムという形態が復活後に残っているかという疑問もある。光の、どちらかというと古典的な考え方からすれば、しっかりアルバムを作ろうとするとは思うから、あとはレコード会社の生存戦略との折り合い次第だろう。様々な要素で、光の詞世界は移り変わってゆく。