無意識日記々

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それでもキンハをプレイした事がナイ人

キンハ新作のTVCMでPassionが流れているらしい。嬉しい。喜ばしい。取り敢えず日本人の中で宇多田ヒカルのPassionについて書いた文字数では10本の指が生える、違うわ、10本の指に入ると自負してみ…どうでもいいか。人と較べる必要もない。私があの曲を好きだという事だけわかって貰えれば十分だ。後は蛇足である。なるほど、蛇に足の指が10本生えたのか。

前作の光は、曲名からしてもどうしたって宇多田ヒカルのパーソナルな側面が出てしまっていて、だからこそ私なんかは「宇多田ヒカルでいちばん好きな曲は?」と訊かれたら光と答えるようにしている。まぁ逃げの一手なんだけど、実際未だに歌メロに限っていえば(宇多メロってそれ宇多田ヒカルにメロメロってことっすか)この曲がいちばん好きかもしれない。後のApple And Cinnamonなどでも聴ける"メロディーの畳み掛け"という美点において抜きん出ているように思う。

翻って、Passionはそのサウンド・プロダクション、サウンド・ストラクチャーが素晴らしい。after the battleも同じくである。大地を踏み鳴らすようなドラムビート、大空を切り裂く青天の霹靂の如く嘶くエレクトリック・ギター、幽玄の無限を表現し続けるキーボード、コントラストの極みともいえる低音から高音から小声から大声から成る立体的なコーラスワーク。そこには厳然と"世界"が広がっている。

この二曲の違いは、そのままそれぞれの収録アルバムの特色の違いでもある。河の流れのように一本の線(曲線でも直線でも)、即ち"音符という点を結ぶ線"であるメロディーに集中したDeep River収録の光と、茫漠と広がる大海や大空、即ちULTRA BLUEを思わせるジオラマ的世界観のPassionと。見事な対比である。

そしてそれは、歌詞の内容にも顕れている。人一人の人生とは世界線だ。アナタは今という一瞬確かにソコに居て、次の一瞬にはソコのすぐ隣のアソコに居る。線で描かれる楽曲には、世界線を描く私小説的な歌詞観が似合う。

Passionは面、或いは世界の広がりである。様々な人生、無限の世界線を束ねた"世界"は最早"線"ではない。その広がりはサウンドの広がり、更には"誰でもない"普遍的な歌詞観である。あそこには、世界の聖域が確かにあった。よく出来ている。

今後、どれ位の人間がこの光とPassionに出会っていくかは皆目わからないが、間違いなく生き残る。片方は光の人生の世界線の軌跡であり、魅力的でない訳がない。他方は光の知る世界そのものであり、これが面白くない訳がない。寧ろ、この曲たちが生き残っていく様を、我々が見届け切れないのが残念でならないのだった。