無意識日記々

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有力な無力感:前回からの続き

音楽は根源的に無力感を抱えている。ヒカルが疲れ切った人を好むのも、「もう何も出来ない」という状態と親和性が強いからだろうか。

しかし、宇多田光個人は才能に溢れ、我々一般人(てだからそれは誰の事なんだってばよ)からみればオールマイティーな超人である。何でもこなしてしまうからこそ何も出来ないように思えてきてしまうのだろうか。何だかそういう事ではない気がする。

人間活動の要点といえばこの「できること」にあったのかもしれない。実際に自分で身体を動かしてモノを右から左に移動させる、或いは採ったり捕ったりといった事かもしれない。何がしか実際に世界を変化させる術と対峙していた、という解釈。

音楽も確かに何かを作っているのだが"他所への影響"という点では甚だ心許ない。鉄道を敷設すればその上を者や物が行き交う。確実になかった時と較べて世界は変化する。しかし音楽は鳴らせども鳴らせども空気の中に溶け消え去っていくだけだ。人の耳に届いてそこで初めて何かが起こる。

しかし、それをいえば鉄道だってそれを利用しようという人間が居て初めて意味をもつ、という点では同じかもしれない。ここらへんはなかなかに峻別が難しいが、鉄道の利便性の明確さに較べ音楽の利便性といわれても何が何やら曖昧だ。それは個人の嗜好による所が大きいからだが、人の営みが経済活動として互いに繋がり合っているのならば、そんなに区別する必要はないのかもしれない。

ただ、曲作りのアプローチとしては変化を齎す可能性もなくはない。今までもタイアップに関して"楽曲の機能性"を考慮に入れて作曲はしてきているけれども、より機能性を重視した、というか機能性ありきの楽曲を構成してくるかもしれない。それはシーズン・ソングであったりシチュエーション・ソングであったりと様々だろうが、人間活動が曲作りに変化を与える"とすれば"、そういう傾向になるのではないか。

しかし、今更宇多田ブランドにそんなものを求められるだろうか。寧ろ宇多田には宇多田のポジションを貫いて欲しい、というのが大半ではあるまいか。ヒカル自身も、そういう空気は感じているだろう。やはり人間活動というのは、音楽活動に変化を与える為ではなく、音楽活動を変化させない為の処置と考えた方がいい。

ただ、どこまで行っても宇多田光はひとりの人間である。そこまでストイックに「二足の草鞋を別々に履き続ける」事が可能かどうかはわからない。これから先ずっと後から影響が出始めるかもしれない。ヒカルとUtaDAの二足の草鞋は結局一足に統合された。一方、住処としてはNYと東京に加え、ロンドンという第3の土地が浮上してきている。光の生活はどちらに転ぶかはわからない。ただ、その根源たる無力感には変化が起きないだろう―と言いたくなるのは、こちらに歌をずっと聴いていたいという願望があるからってだけなんですけどね。