無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

なぁんだ。

総てをぶち壊したいっていう衝動がなければ曲作りなんて出来ないのかもしれない。

…いや、独り言。私達の事でもない。と信じたい。

さて、宇多田ヒカルの人生は唯一無二であり、他の誰とも似ていない、とはいつも書いている事だ。母がいちばん近いが、最早別の道を歩んでいてそろそろ余り参考にならないのではないか。参考と愛情は無関係だろうし。

ところが私自身、"物語"という言葉を使う時、ほぼほぼ必ず誰かと誰かを対比している事に気が付いた。いやもっといえば、パノラマ的世界の中での悲喜交々、あちらが立てばこちらが立たず、捨てる神あれば拾う神あり、といった様々な人々の人生の対比をもって"物語"と呼んでいる気がする。群雄割拠といってもいいし群像劇といってもいい。一人称の物語があると言っても、そういえば登場人物がひとりだけの作品ってあんまり記憶にない。星新一の掌編にあったようななかったような…。兎に角、ちらっと挨拶程度にしか登場しない人にもその人なりの人生があり、私と同じだけの厚みをもった一年を年齢分だけ積み重ねていて、それらが混じり合う中に物語が紡がれていく。対比なしで物語を描くのは難しい。

となれば、誰の人生とも較べられないヒカルの生き様に私が物語を見いだせないのは当然かもしれない。この場合の物語とは秩序とか法則とかと言ってもいい。勝者が居れば敗者が居る、儲かる人と損をする人、笑う人泣く人起こる人、グーを出す人チョキを出す人パーを出す人、紫を選ぶ人青を選ぶ人緑を選ぶ人黄を選ぶ人赤を選ぶ人黒を選ぶ人白を選ぶ人…そういった総てを内包して宇宙は回っている。そのパノラマを眺めて世界を感じる。それが哲学であり思想であり、精神である。心の成り立ち。

しかし、宇多田光の存在はそれを破る。彼女を統べる法則も秩序も存在しない。彼女が何かもっと大きなものの一部であるようなものの見方を、私はする事が出来ないのだ。言ってる事のどこまでがフィクションなのか書いてる自分がいちばんよくわからないが、確かに、彼女が「何かの為に」頑張って生きているのなら、その「何か」は彼女より上位の存在であるかもしれず、従って私はそれに付き従えばいいことになる。光はその為の"道具"に過ぎない…と言えるのならば、彼女もまたこのパノラマの一員として秩序を保つ作用に加担してくれることだろう。

しかし、それがない。例えば彼女を犠牲にしてまで守りたい"大きなもの"があるだろうか。ない。困った。いや困ってないか。自分でも何を言っているのかわからないが、つまりそう思っている以上私は宇多田光に物語を見いだせない。人によっては自明にみえることも私にはみえない。悩むべきことなのか幸せなヤツなのか。自分でもよくわからない。

光が、光自身の思う「自分より大きなもの」に触れ合っている瞬間に、いちど立ち会ってみたいものである。クマチャン出してきそうだな。ああ、それでいいのか。それでいいんだ。なぁんだ。