無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

アタマのグルグル

そういえば今日は福原愛の24歳の誕生日だ。もう24かという感慨とまだ24かという驚嘆が入り混じるが、彼女こそ、私が普段言っている"物語"を持った人物だ。

3歳から天才卓球少女としてメディアに取り上げられ続けて20年目にして全日本選手権とオリンピックの銀メダルを獲得する。絵に描いたような人生とはこの事だ。勿論事実は小説より奇なりと申しましてなかなかに一筋縄ではいかない事もあったが、何から何までドラマティックだったように思う。早速右肘の手術から回復し来月のワールドツアーグランプリファイナルからの復帰を目指しているそうな。優勝も可能だろう。一回戦負けもあるかもだが(出場者全員優勝候補の大会なので)。頑張って欲しい。

ヒカルと何が違うのだろう、と思ったが話は恐ろしく単純で、彼女の場合"卓球をする"という軸が全くブレていないからだ。その軸に沿ってエピソードを盛り込んでいけば何だってドラマティックになるともいえる。また、それが対人競技である事も重要かもしれない。必ず対戦する相手が居るとなればドラマには事欠かない。常に他者との対比で語れる。その上でスポーツというものは"自分のプレー"が出来た時が最もドラマティックなパフォーマンスを生むのである。やっぱり、ドラマには事欠かない。

ヒカルの場合は音楽があるじゃないか、と100人中100人が思うだろう。私もそう思う。しかし、その音楽に時間軸方向の整合性がみえない、というのが毎度の溜め息だった。更に他者の不在も大きい。ライバルが居ない。倉木麻衣浜崎あゆみも、メディアの作り出した架空の物語のライバルでありヒカルとはぶっちゃけ関係ない。ひとりだけライバルといえそうなのはやはり母であり、母だけである。そして、私にはこの母との関係性においてのみヒカルにうっすらとだが"物語"が見えそうな気がしてならない。母を私が守らなければならなかったと悔いる光の姿にこそ人間のドラマを見る。光が悔いてる姿を見たい訳では決してないが、「そうこなくっちゃ」と一方で思ったのも確かだ。ちょっと残酷だね。ごめん。

ただ、音楽で、といってもそれは歌手として、だけともいえる。ヒカルの当初のスタイルは確かに90年代のソウル、即ちR&B/ヒップホップの影響が強く、そこに時代性を見いだす事は出来た。しかし作曲家としてはまるで比較対象が居ない。普通、このレベルで比較対象の居ない作曲家はその強烈な個性でそのままいちジャンルを築き後世に多大な影響を与えるのが常だ。それがこのレベルの作曲家が持つドラマ性である。しかし光は自らがジャンルとなる事を拒んだ。ヒカルに憧れて歌手になった人は出てきているしこれからもまだまだ出てくるだろうが、歌唱スタイルを真似る歌手は幾らでも想像がつくが作曲スタイルを真似る人ってどうなのか。居るのやら居ないのやら。

そう考えると、私がドラマ性、物語性を見いだせていないのは、厳密にいえば歌手宇多田ヒカルの方ではなく作詞作曲家宇多田ヒカルの方なのかもしれない。元々、作曲家なんてのは作家と同じで一代限りの才能である…と書こうとしてバッハ一族やヨハン・シュトラウスを思い出してしまった…うーん、どうなんだろう。一般論は兎も角として、ヒカルは"一代名跡"という感じがする。受け継ぐ旗がない。

ただ、一世一代の人はそこに「独自の世界」を構築してそこの主になるのが常だ。そこがヒカルは違う。独自性は高いのだがそこに"閉じた世界"なんか作らない。常に開かれた、ポピュラーな音楽を…



…というのがここ数年の私のアタマのグルグル。このループから「Q」の文字のように華麗に脱出できる日が来るのだろうか…。