無意識日記々

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Be My Last In The End

"In the end"の"d"の発音がとてもいい。タイミングといいヴォリュームといいエアの抜き方といい絶妙。

ヒカルの歌の特徴はタメである。特に桜流しではピアノのコードが"無慈悲に時を奏で刻む"為、余計にそのコントラストが映える。Be My Lastではドラマーがこれまた絶妙のタイミングでスネアをヒットしヒカルのタメのよさを最大限に引き出していたが、桜流しではその逆、という訳だ。

これは歌詞のコンセプトの違いに起因するものといえそうだ。Be My Last、即ち春の雪も確かに家系などのもって生まれた運命が人生を大きく左右しているのだが、ここで表現されている「どうしようもなさ」は、自分自身に向けられている。自ら運命を切り開く力が無い事を嘆く。情けなさや至らなさといった自責の感情がここでまは主となっている。

桜流しでは、何度も述べてきたように、「自分の力ではどうしようもない大きな力に運命が翻弄される物語」が大動脈として流れている。ここが違う。自らを責める前に、本当にひたすらどうしようもない。こちらの無力感は即ち絶望である。春の雪に在ったのは悔恨であって、絶望と悔恨の差は大人とこどもの差かもしれない。「何も繋げない/掴めない手」。彼、彼女が見つめるのは自らの手、即ち意志と自由でありそれをどうする事もできなかったのならそれが産むのは悔恨だ。自分で壊さなきゃならない日が来る、とは自らの意志と自由の限界の物語でもある。

桜流しで主人公が見つめるのは花の散るさまであり、また"あなた"の居ない木立である。自らの自由を凌駕する存在、"為す術のない絶望"がそこには表現されている。何しろ、"あなた"はこの街を守ってしまうとても力強い存在なのだ。なのに、もう居ないのだから自由より上位の何かがそこに在るというしかない。

しかし、それでもヒカルはこの曲に"罪悪感"があるという。EVA次作の「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」のシンとはsin、即ち罪ではないかという説もあるが、桜流しに限っていえば『もし今の私を 見れたならどう思うでしょう あなたなしで生きてる私を』の一節には確かに罪の意識を感じる。ならば『どんなに怖くたって目を逸らさないよ』とは贖罪の決意なのだろうか。ここは、ちょっと立ち止まって考えてみなくっちゃあいけないかもしれない。

ふぅむ、困った。となると、春の雪とEVAQの両方の物語に踏み込んで比較してみないと対照は描けないな。しかし、それってちょっとやり過ぎかなぁとも思う。第一、桜流しをBe My Lastと対に見るのは、私の中では"桜流し"というタイトルを目にした瞬間から決まっていた事だが、ヒカルは一度もそんな事言った事がない。その状態で春の雪のストーリーにまで立ち入って何か持って帰ってくるというのは…。まぁ、来週までの宿題という事にしておきますわ。自分自身に対しての、ね。