カフェとバーの話は、何度かしてきた「ヒカルは素でPopな曲を書けるタイプではない」という話の変奏である。踏み込んで言えば、根はPop Musicianではないのだ。放っておくとPopな曲を書かないから、敢えて自らに「Popであれ」と強いる事でPop Musicianに"なる"、或いは"化ける"と言った方が適当か。
Pop Musicは他者の音楽であるので、根がどうのとか化ける化けないとかは最終的には問題にならない。他者からみえる結果が総て。本意だろうが不本意だろうが最後にPopな曲を作り上げる事が出来ればその人はPop Musicianを名乗れるのだ。もっとも、音楽とは正直なもので、イヤイヤやってるかノリノリでやってるかすぐにリスナーに伝わってしまったりするのが現実だが。
で。今のヒカルは「Pop Musicを提供する」という軸自体には変化がないけれども、旧来でいうところの「Popな曲を提供する」というスタンスとはちょっと違う位置に居るんじゃないかという風合いが漂う。なお「Popな曲」といえばそれは“『Goodbye Happiness』みたいな曲』と思って貰って差し支えない。ヒカルの書いたPop Songの中でも最高峰だろうから。
「違う位置」に移動した最大の理由は『真夏の通り雨』の存在である。超大名曲『桜流し』を既に擁している状態で果たして新譜としての"新しい軸"はあるのかという興味が集中する中現れたのがこの曲だった。『桜流し』より更に大きなスケールで、更に深い絶望を描いた同曲は確かにヒカルの今の指針のひとつだろう。
『桜流し』は強靭な楽器陣と美麗激情の歌唱の融合だったが、『真夏の通り雨』は日本語の構造に主眼を置く。メロディーの強さは二次的な価値になった。ここを歩むからには言葉の強さに改めてメスを入れなければならない。この流れにおいてヒカルの過去の歌詞を振り返る『宇多田ヒカルの言葉』の出版は必然ですらある。ヒカル自身も、何らかの形で自身の作詞を再検討するタイミングだったのではなかろうか。
然るに。今のヒカルは「弾けるようなPop Song」を提供する段階になく、リスナーはじっくりと日本語を味わうべきターンに入っている。『あなた』はその流れの中の結節点或いは分水嶺の役割を果たしそうだ。『宇多田ヒカルの言葉』は『あなた』をもって締められ、そして恐らくそこから未来が開ける。『言葉の行方』がそこから示唆される筈である。
ただ、気になる点がある。非日本語圏のファンが置いてき堀な事だ。2009年のHikaruは、音楽活動が英語圏を中心としていた時期にバランスをとって『点』と『線』をリリースし日本語圏のファンにも配慮をした。今回も同じ考え方を適用するのではないか。形状や流儀はわからないが、来月。何か新しい英語圏向けのコンテンツが発表される可能性がある。今年は初頭に『Ray Of Hope Mix』をリリースしてiTunesStoreUSAのソングチャート上位に食い込んだ。あそこまで派手々々しくはなくとも、英語圏のファンが喜びそうな事は何かあってもいいんじゃないか。いやここで仏語とかだったら笑うけど。