無意識日記々

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無駄な心配

温度差、みたいなものもある。どうしても、宇多田ヒカルを追っかけてると、「J-popの壊滅状態」みたいなものが実感としてよくわからない。遠くの方で起こっている他人事みたいな気分がどうしてもあって、だから気軽に「J-popはなくなってもいいんじゃない」みたいな事が言えるんだと思う。

一方ヒカルは全くの衰え知らず。人間活動中だというのに作曲家として圧倒的な現役感を放っている。これを、J-popの中に組み入れて考えるならまだまだいいんじゃないかと言ってしまえるのだが、ヒカルの影響力というのは案外限定的だ。彼女が幾ら奮闘してもシーンの活性化という話にはならない。不世出であるが故に別格別枠で、「あの人は特別だから」と扱われてしまう。だから、まぁもしかしたら私がヒカル追っかけてようがいまいが感想はあまり変わらないかもしれない。いまいが、の仮定で考える力は私にはないのだけれど。

普段AFNを聴く事が多いのだが、全米の場合カントリーもロックもアイドルも、昔と変わらず元気そのものだ。時々、J-popを聴いてると「ひょっとしてこっちの感性が若いもんのセンスについていけてないだけではないか?」という論理的可能性について考えてしまうのだが、英語で歌われる"イマドキの歌たち"を耳にすると昔と変わらず「Popだなぁ」と感じる事が出来る。こちらの耳はまだ大丈夫のようだ。まぁ、最初っから邦楽勢に対して「わけのわからない不気味さ」みたいなものを全然感じていないので、やっぱりただの論理的可能性に過ぎないのであった。

今の邦楽市場は大体80年代に戻っただけ、とみるのがわかりやすいが当時に比べテレビの影響力が相対的に落ちている、というのはあるかもしれない。その分、裾野は広がっているのなら別にそれはそれでよい。もう後は、日本人の方に"国民的名曲"を求める空気があるのかどうかだ。それをいちばん欲しているのはテレビ自身の方だろう。地上波全国ネットという1億人を相手にした商売をしているのだから、やはりその規模に訴求するコンテンツが欲しい。一方、アーティストの方はといえばテレビを見るだけで一円も落としてくれない人たちよりは円盤を買ってライブに足を運んでくれる人たちこそ大切であって、要は熱心なファンの方を向いていればいい訳だ。国民的、なんていうスケールを相手にする必要はない。

ヒカルはどっちなのだろう。ここは難しい。ファンクラブはない。かといって、テレビを重視するかといえばそんな事はない。主な活動場所はインターネットだが、つまりそこは向こうから興味をもってくれる人しか寄ってこない。ヒカルはヒカル、という活動形態を受け入れてしまえば悩む事ではないのだが、外からみると結構意味がわからない。時々バランス感覚が失われてるんじゃないかと不安になるが、まぁそれはそれで成り行きに任せていきますかね。