無意識日記々

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描かれた静寂

もっと言えば、桜流しのビデオには「音が鳴っている場面」が皆無なのだ。ナチュラルな音をつけるとすれば、自然を映す時には風の音、人の居る地はガヤの音、即ち、何れにせよノイズしかない。鳥が二羽飛び立つ場面はあるが、著しくピント、焦点が外れている。ピントの合っている、即ち映している対象物自体は一切音を出さない。

この事は、大きい。視覚と聴覚は我々が思っている以上に緊密な関係にある。無音の映像であっても、人は無意識に音を当てはめて解釈してしまう。ホームランを打つ無音の動画を見ると知らず知らずのうちに「カッキーン!」という音を想像してしまうのだ。或いは、まるで逆に、打球音を期待してしまうからこそエアポケットのように無音動画を感じてしまい、途端にリアリティが失われてしまったりもする。どちらにも転び得るのが音と映像の関係だ。

本来音が鳴る場合であっても無音のまま映像が流れ続けるミュージックビデオを観た場合我々はどう感じるか。シンプルに、歌を「こちら側」、映像を「あちら側」と認識する。ガラスの壁一枚隔てた向こう側の出来事として映像を捉える。他方、歌は身近に感じ得る。

桜流しの映像のテーマは「静寂」である。どの場面も、実際にその場に居れば風の音や雑踏の音しか聞こえない、もっといえば「遠くの方でしか音が鳴っていない」状態が、次々と捉えられている。L字型の紙切れにこどもの絵が描かれている場面なんかは特に秀逸だ。ああいう風にモノを見ている時、あらゆる音、そしてリアリティはとても遠くに感じる。自己との対話、もっといえば経験である。

その「隙」に、桜流しの音は流し込まれる。それが何になるかといえば、歌がそのまま自己対話、自問自答の声となっていくのだ。世界の見え方、世界との接し方の設定次第で、この歌は人の心への沁み込み方がまるで違ってくる。そこを強化するからこそこの河瀬作品は秀逸なのである。

この歌は問う。『もし今の私を見れたならどう思うでしょう』と。この歌は謳う。『聴けたならきっと喜ぶでしょう』と。この心の声、心の叫びが如何に"自分のものとして"響くかがこの歌の齎す感動を左右する。繰り返す。そこを強化するから、この河瀬作品は素晴らしい。

本来なら、日常の中でふと陥る"音の無い世界"。何かに吸い込まれるようにして何も聞こえなくなる瞬間を選んで、桜流しが鳴り響く。どこまで意図的なのだろうか。わからない。

映像が描くのは、日常の中で音を失う時間帯。だからこそ音楽が生まれ得る。この動画は、実際の赤子が生まれるだけでなく、人の心に音楽が生まれる瞬間もまた内包しているように感じられるのだ。静寂が描く響く歌声。確かに、DVDシングルとして出す価値がある。力感溢れた作品である。