無意識日記々

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音の示唆の無さ

桜流しのビデオに於いて、前々回も触れたように「赤ん坊が泣かない」というのがポイントのひとつとしてあると思う。

あの場面、生まれたての赤子が大人の指をその小さな掌でぐっと掴んで離さない、一心不乱に父を飲み、臍の緒が切られる。何かを断ち切る事で親と子という新しい絆が始まるとは象徴的なイベントだなぁと思うが、ヒカルの歌詞は取り敢えず『今日も響く健やかな産声』であるにもかかわらず、肝心の産声が(画面の中では)響かない。

距離感、というのはここらへんに顕れているように思うのだ。産声、というのをそのまま映像にすると"あからさまに過ぎる"。これは、映像作家の本能というか基本というか、兎に角歌詞をそのままなぞる"だけ"の表現をよしとしない。

それでも、ここでのその"選択"は大胆であるように思える。何しろ、歌詞の中で最もインスパイアされた一節なのだから。

ただの比喩、という事も無理ではない。産声を上げる=生まれる、確かにそうだ。だから気にする必要もない。が、ならば響かせる事もまたよい。どちらかはわからない。

全体として、このビデオ、画面から音がしないのである。言い直せば、音を示唆する映像が極端に少ない。河瀬監督はミュージックビデオを撮るのは初めてじゃあなかったんだろうか。これが統一された意志基準となって、ビデオの方向性が明確になったように感じられる。

つまり、映像が歌を邪魔しない。鑑賞者が映像から音を想像しない為、歌とサウンドはその存在を遺憾なく発揮出来ている。音楽家としては、有り難い。映像は独自性を発揮しているが、音楽を浸食しようとはしない。このバランス感覚と、それを実現する技術。素晴らしい。

そして、そこからもう一段。そうであるにもかかわらず、音の示唆が無いにもかかわらず、映像が「ただの静寂」に留まっていない事が大切である。次はそこらへんの話から。