無意識日記々

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高いの低いの遠慮のないの

熊泡を聴いてみていちばん私の中で気持ちが変わった所といえば「俺もラジオ番組やってみてぇ」という欲望が発生した事だ。

たぶん、自分の好きな曲をかけてるヒカルが楽しそうだからだろうな。正直、リスナーにそう思わせるっていちばんの正解である。これを以てして「いい番組だ」と断じてしまってもいいくらい。

これは、新しい局面かもしれない。他にも私のような気分になった人が居れば、だが。

何が新しいかというと、宇多田ヒカルという人はどうしても別格扱いというか別枠扱いされていて、例えば歌の上手さは異次元レベルだよねぇ、で止まってしまう。ヒカルのように歌いたい、とはなかなかならない。「そりゃあれだけ歌えればいいだろうけれど、ねぇ」と溜め息を吐くのが関の山だ。

そこは、違うのである。積極性を目覚めさせる、って凄く大事なのだ。チャック・ベリーAC/DCが偉大なのは、「簡単じゃん、あれだったら俺にも出来るよ」と若者に楽器をとらせた事である。事実、彼らの曲は簡単で、楽器を覚えたてでも一曲しっかり演奏できるよという敷居の低さ。これが大事だ。そしてそれより更に大事なのは、その簡単な楽曲たちが、演奏するに値するクオリティを備えている事だ。「やってみたい」と思わせる質の高さと「あれなら俺にでも出来る」と思わせる敷居の低さ。これが積極性を生み出す。

私が「こんなラジオ番組やってみたい」と思ったのは、喋れるかどうかはともかく、選曲してそれについてのコメントを並べる"だけ"なら、俺にも出来るかもしれないと感じさせた事と、何よりヒカルが楽しそうだった事だ。好きな曲を好きなだけ流しそれについて語る、というシンプルさを実行するヒカルの楽しそさ。もしかしたらこれがKUMA POWER HOURのいちばんの魅力かもしれない。

それにしても、今のご時世、インターネットラジオならば今すぐにでも始められるよな…ラジオやってみてぇなぁ、、、すぐにやる予定はありませんし、人前で喋るだなんてとんでもない事である。

それより、楽しそさである。大人っぽくなった、落ち着いた、色気がある、などなどとニューヒカルを形容する言葉が踊っているが、私にとっていちばん印象的だったのは「音楽の話をしている時のヒカルは何とも楽しそうだな」、という伝統的な一点だ。これがあった。熊泡にも。

変な話だが、作詞作曲中やテレビやステージで歌っているヒカルは「あんまり楽しそうじゃない」。これが気掛かりだった。どんなに辛く苦しい事があってもそれを上回る楽しそさがあればそれは常に望ましい。裏を返せば、そこまで自分を追い込む位なら休めば?と言いたくなるのがヒカルの本業に対してのいつもの私の、我々の態度だ。事実、それは現実のものとなりヒカルはアーティスト活動を休止している。

しかし、ラジオで音楽の話をするヒカルには一切の無理がない。第1回は多少緊張していたがそれも何の事はない。ヒカルが楽しそうで、無理なくずっと続けられる、こちらが遠慮なくずっと続けてくれと頼める楽しい仕事。それがラジオ番組。ならば人間活動もアーティスト活動も関係ない。ヒカルが生きている限りラジオはずっと続ければいい。作詞作曲やライブに対して遠慮ゼロでそう言うのは難しいが、ラジオは違うのだ。とても嬉しいポイントである。