無意識日記々

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どうやってまとめるのか

エヴァンゲリオンというアイデアの秀逸な点は、前回述べなかったように機能と象徴と現象を実在として表現した事にある。そのトリックをどう纏め上げるかが新劇版の焦点だ。

EVAは現象である。それは作品セカイを飛び出して実社会に影響を及ぼすという意味での存在だ。従って、閉じた作品としての質はまだそこまで高くない。

前に「魔法少女まどか☆マギカは感情が論理に翻弄される物語、新世紀エヴァンゲリオンは感情が論理を作り出す物語」と書いた。論理とは世界の秩序であり、その象徴として描かれるQBは即ちセカイの体現者だ。感情の揺らぎが世界を書き換えるセカイ系作品に対する無意識のアンチテーゼとなっているが、その作品としての完成度は桁違いに高い。最終的には感情の力が世界の論理に対してどうはたらきかけるかを描写して、まどマギのテレビシリーズは終局を迎える。いわばあちらからこちらまで網羅して作品を締めくくった。ならばEVAも、出来上がった論理、セカイの秩序が感情に対してどう"反逆"してくるかについて語られねばならない。こちらの機嫌で壊れたり生まれ変わったりするだけでは作品は完結しない。神は自ら作り出した論理に裏切られる事はあるか?という問いである。

その中でヒカルは何を歌うか。"Beautiful World"において既にある程度の方向性は描かれていると考えるべきなのだが、例によってヒカルにはその自覚がない。勿論、もしかしたら御多分にもれずヒカルはこの物語の終結を最初から知らされているかもしれない。もしそうだとしても厳重な箝口令が敷かれているだろうからインタビューでは「何も聞かされてない」と答える、という選択肢も有り得る。恐らくそうではないだろうが、ヒカルが何から何まで総ていきあたりばったりなのでも計画的なのでもなく、偶然と意図と必然のミックスによって世界は形作られていく。

幼少の頃、世界とは母親だった。避難基地であり自我の投影であり移動手段であり補給手段である。早い話が総てだった。エヴァンゲリオンがそれである、或いはあった、という状況から一歩踏み出し、どこに行くのか。一転喪失の物語となったEVAQという"挿話"の意味は何なのか…これについても今は手に余るので触れないでおこう。

しかしながら、桜流しで描かれた情景は、たとえばファーストガンダムでいえばララァアムロの邂逅と別離の物語にあたるだろう、と考えると得るべきパースペクティヴは、EVAという作品にとどまらずロボットアニメ全般の流れにまで言及すべきなのかな。もうちょっとだけ、悩んでみよう。