無意識日記々

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CatchAtOnce,HoldOnce&ReleaseIT

感情が論理を生む物語と、歌は相性がいい。音楽というのは、出来上がった総体は数学的な何ものかでしかないのだが、なぜそれが生まれてきたかについては混沌としている。数学がそうであるように。何故こんな美しい景色が眼前に広がるかはわからないが、兎に角美しい。そう言うしかない、のだ。

論理が感情を翻弄する物語は、総てが統一的に設えられているが故に、そこに何故それが置かれているのかを説明する事が出来る。尤も、そうやって説明の出来る要素を総て集めた構造としての総体自体がどこからやってきたかはわからないけれど。

音楽は衝動に引き起こされ得る。それは故に個々人の感性と才能による所が大きい。

アニメーションのような多大な人員を動かすプロジェクトに於いて、その音楽のような衝動的な漲りや、個人のクセを灰汁強くここまで封じ込めてきた点に於いて、エヴァンゲリオンはアニメの中でも突出した存在である。その手触りが文学的になるのも、庵野総監督の私小説的側面、個人芸が、何故か表現されているからだ。ここが新しく、20世紀末から21世紀初頭にかけてこの作品が生まれ注目されてきた所以だ。

本来ならば、このような衝動に後押しされた創作物は、音楽の特権であった。言葉にならない気持ちを、叫ぶような音に込めているうちに何かが出来上がる。何が何だかわからないが兎に角、強烈だ。そういうわけのわからなさは、個人芸がそのまま表現され得る方法論でないと実体化され得なかった。それがなぜアニメーションという巨大プロジェクト型のコンテンツで可能だったのか。それはまぁ歴史に待つとして。

ヒカルは歌手であり、何よりポピュラー音楽の作曲家だ。衝動をそのまま音にするような人ではない。しかし、好む音楽はそういう"突き動かされるようにして"出来てきた音楽だったりもする。自分はそうはしないけど、と。不器用な生き方の、しかし音楽については天才肌の彼らへの愛着。その原点は藤圭子かもしれないし、そうでもないかもしれない。

そんなだからEVAの中で、歌手として音楽家として出来る事はある。いや、あるのか? そもそも彼女は物語の"中"には居ない。エンドロールの住人である。「歌はいい」と呟いていた人とのピアノ連弾が、予告動画から本編に至るまでEVAQの鍵だった。桜流しといえばピアノではある。ヒカルは、そこで何をしたのか。売れる歌を書いた訳でもなく、物語に沿った歌詞を書いた訳でもない。ただ、いつものように匂わせる一節を付しただけだ。

果たして、桜流しの齎す感情の嵐は、EVAQの齎すソレではない、と私は感じる。別物だ。しかし、この歌は、そのタイトルを見た瞬間に私にEVAQの作風を悟らせるに十分だった。つまり、歌とアニメは別々の表現手段であり、同じ所に居るには違う事をしなければならないのかもしれない。わ、わからない。


EVAは「スッキリする答」は、最後を超えても出してくれないかもしれない。但し、心に何か痕が残るだろう。その痕は、なかなかに消えるものではない。が、もしかしたらヒカルはそれをひとつの歌の中に込めてしまうかもしれない。桜流しがその予兆に過ぎないとすればとんでもない事だが、それはまだ先の話。

先の話? そうでもない? 「シンエヴァ」は、本来一挙に上映される筈だったQの次の(かどうかはわからない物語の中の時系列においては)作品であるからして制作は存外急ピッチであるやもしれず、ヒカルは既に"それ"に取り掛かっているかもしれない。幾ら新劇EVAの全体を貫けるであろうと私がずっと太鼓判を押し続けている楽曲であるとはいっても、最後をBeautiful Worldのみで締めるなんて事はしないだろう。桜流しは、あらゆる意味でハードルをあげた。

…ってよく使うけど、実際のハードル競技じゃハードルの高さなんて調節するの? 走り高飛び棒高飛びのバーの話だと思うんだけど。


アニメーションの魅力の中核を成すのは「わかる」の部分であり、本来ならエヴァンゲリオンのゆうな「わからなさをそのままぶつけてくる」作風はアニメの魅力の中では異質中の異質かもしれない。本来ならそれは言葉以前の歌、音楽の役割だったかもしれず。そう考えると、宇多田ヒカルの真骨頂は最後の最後に最大限に発揮されるだろう。衝動を捕まえろ。決して離すな。そしてもう一度解き放て。