無意識日記々

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演説というより文通

インターネットのお陰で今や放送と通信との境目はあやふやになり、拠り所といえば電波のどの帯域を使ってもいいかの御墨付きを国から貰っているかどうか、という余り本質的ではない(がしかし非常に重要な)点のみになってきたといえる。

インターネットではただの"放送"というのは最早意味を為さない、というか通信の特殊な一形態に過ぎない、という事になっている。誰しも、情報を受け取るだけでなくこちらから発信する事が出来る。方法は何でもいいが、携帯からメールを打てる、という人なら誰もが発信者だ、といえる。

そんな中で"放送"に当たるのは、送受信のやりとりが、一対多、或いは少対多になっている場合、という風に言い換えられるかもしれない。つまり、ある一点、ある1人に対して多くの人が送受信を試みるような状況が「通信の中の"放送"」だという言い方だ。

言い方なんてどうでもいいかもしれないが、こういう考え方をする事でラジオ番組のスタイルというものを適切にプロデュースできるのだと思うのだ。

第1回、ヒカルは誰に対して喋っていたのだろう? これに答えるのは、難しい。ラジオを聴いていて、我々は宇多田ヒカルの取り留めない"独り言"を聞かされていたのだろうか? うーん、そうでもない。かといって、"ラジオの向こうのみんな"に対して話しかけていたかというと、何だかそれも違う。ウチらがいちばん期待するのは、「まるで宇多田ヒカルが私1人に話し掛けてくれているような」感覚を齎す喋り方なんだと思うが、第1回という事でどことなく手探りだった感じ。冒頭で、「かっこよくないですか?」と訊かれた時に、ラジオに向かって返事をした人はどれ位居たかな。

そこが、ラジオのスタンスを決めると思うのだ。もしこれが生放送で、ツイートやコメントを次々に拾えるような状態だったら、忽ち「宇多田ヒカル対皆」という構図で対話のトーンが決まっていくだろう。がしかしこの番組は収録なのでそういう風にはならない。

恐らく、いちばん近いのは「文通」なのだと思う。ヒカルから1ヶ月ぶりに長い長い手紙が届いた。そこにはMP3の沢山入ったSDカードがついていて(いやCDやMDやカセットテープでもいいけどね)、ヒカルが最近お気に入りの曲を教えてくれる…なんか、今のところそんな感じがいちばん近いかな。ただ、それすらも手探りで、そういうスタンスが徹底されているという感じでもない。そこらへんの方向性が、第2回で定まってくるのではないか。

放送、というのは多分本来「演説」に近い。ここから多くの人に語り掛けるような。沢山の人が揃ったら「演劇」になるかな。しかしそれはどちらかといえばテレビの方で、ラジオ番組、それも深夜になればなる程親密な雰囲気が強調されやすい、のが伝統だったのだが、今は、先述のように放送と通信ね垣根がなくなり、ツイートやコメントやメールのお陰で番組を聴いている時に私たちは自分と同じようなリスナーが沢山居る事を意識する機会が飛躍的に増えた。勿論ラジオ番組は昔からハガキや電話によってそういう"広場っぽい"スタンスも築き上げてきたのだが、ヒカルがこうやって今"文通"的なスタンスでラジオ番組を編集してくれているというのは、かなり特徴的な事なのかもしれない。流石にここまでややこしい事は考えていないかもしれないけれど、第2回以降もこの持ち味はある程度キープした方がいいんじゃないかなぁ。