無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

UTADAという5文字への思い入れ

思い出話。最初にWebで聴いた"Devil Inside"は、リミックス・ヴァージョンの方だった。しかし当時は情報が錯綜していて、私はそれをアルバム・ヴァージョンだと勘違いしていた。「おぉ、手堅い出来ではないか。まずは順調な滑り出しだな。」と結構余裕で構えていて、後日Officialで'真の'"Devil Inside"を聴いて、文字通り固まってしまった。マウスを持つ手が動かせなかった。何これ。衝撃。リミックスの方を先に聴いていて油断していたところへの見事な"不意打ち"だった。ここまで特別なミュージシャン(しかもまだ21歳!)を抱えておきながらまともなプロモーションを(以下いつものヤツなので略)

不意打ちといえば、Sanctuaryもまたこちらの油断をつかれた記憶がある。「まぁ、Passionは隅々まで聴き込んでいるし、サウンドはそれと同じな訳で。日本語が英語に変わるという事で光とSimple&Cleanみたいな感じかな〜」と高を括っていたのに、いざ聴いてみたら滂沱の涙。何これ凄い。音楽にあそこまで"神々しさ"を感じさせて貰える瞬間は人生のうちでも数回あるかないかであろう、という程特別な体験だった。まさにタイトル通り、この曲はこの世界の"聖域"だったのだ。


何を言いたいかといえば、何なんだろうな。自分でもよくわからない。

多分、Utadaがとても好きだった、という事を言いたいのだ私は。英語で歌う光は、英語の歌を作る光には、何か特別で、何か特別なものがある。桁違い。天空の向こう。All of the Above. 言い方は何でもいいけれど。

冷静に指摘すれば、彼女の好きな音楽は9割5分以上英語で歌われているものばかりなのだから、彼女が自分の好きな音楽を自分で作る場合、英語の歌を載せたり中心にしたりするのがいちばん自然で、何よりも音楽そのものとの親和性が高いだろう。日本語の歌を書く時の孤高性(しかもあんまり後ろに誰もついてきていない)に較べ、今まで聴いてきた音楽を参照できるという意味でも、洋楽としての"UtaDA"の素晴らしさは、語るに余りある。事実、このblogで山のように語ってきたが、その魅力の千分の一も伝えられた気がしない。

そのキャリアが、今後どうなるか。Kuma Power Hourを通じて、少なくとも"洋楽リスナー"としての宇多田光のスタンス(というには自然体だが)は朧気ながらみえてきていると思いたい。

それは、例えば"アメリカ人として"英語で歌われるジョーク・ソングに爆笑したり、父から受け取った英語で歌われたレコードに母に似た匂いを感じ取ったり、その母の日本語の歌を英語圏の友人に聴かせたり、といった事だ。他にも、グラミーをとるようなメジャーなアルバムを"2012年のTop3"と位置付けたり、前から話題のスーパーグループの曲を冒頭に持ってきたり、といった"ちゃんとシーンの流れを把握しながら音楽を聴いている"事を伺わせる選曲も重要だし、"父に貰ったのは数年前だけど急に最近聴き出して"みたいな'自分の感情の流れに素直な'側面もしっかり備えている。様々なエレメントに支えられての選曲。これを参考にしながら次のUtaDAサウンドを妄想し始めるともうニヤニヤが止まらない…ハズだったのだが御存知のようにもうこの名義では作品を発表しないのかもしれない訳だ。ちょっと、どころか凄まじく物凄く心の底から残念である。嘘偽り無く。泣く泣く諦めるしかない、のか。


Utada Hikaru名義で、どこまでいけるか。桜流しを聴く限り…いやいや、英語の曲創っても凄まじい事になるんじゃないの。何さっきの「諦める」発言。速攻撤回。名義なんて何でもいいや。すぐにでも光の英語曲が聴きたいぜ。

ただ、名義が違うという事は、だ。クオリティが低ければ私は安直に「UtaDAの頃はよかったなぁ」と呟けてしまう。これは痛い。幾つかの意味で。UtaDA時代。そう言い切れてしまう事が名義変更の功罪である。最大のライヴァルは過去の自分だ。それを明確にする為にも、いいことだったのかもしれないな。名前が喪われてしまうのも…。