いや〜、熊淡弐ばかり聴いているのもバランスがよろしくない、たまには他のものにも耳を傾けねば、と思って最初に手に取ったのが、「Kuma Power Hour with Utada Hikaru Erisode 01」―熊淡壱だった私は最早病気ですよね、わかります。はいはい。
いやしかし第1回もいいなぁ。第2回を聴いた後に聴き直してみるとまた違うもんだ。特に最後の「聴いてくれてありがとうございました」の言い方のかわいいことかわいいこと…三十路過ぎのバツイチBBAにかわいいも何もあったものではないが、仕方がないだろ萌えるんだから。三次元万歳。(謎)
そんなに何度も同じ放送を聴いて何が面白いんだ、と思われるかもしれないが、「感覚」を掴みたいんです、私は。Hikaruの選曲は、ジャンルレスでありながら統一感がある。しかし、その統一感とは具体的に何であるか、というのを表現するのはとても難しい。例えば、パッツィークラインとエリザベスフレイザーの間にシンガーとしての共通点を見いだすだなんて恐ろしく難しい。しかし、番組全体、第1回第2回を通して聴くと何故か「全体としての統一感」が感じられ、しっかりとしたコンセプトというか感性というか、ただ雑多なだけではない多様性の中に潜むものが感じ取られてきそうな予感があり、それは即ちUtada Hikaruの趣味嗜好であり価値観であり、つまり彼女自身のマインドの一端がそこにはある。確かに、彼女の作るオリジナル・アルバムに比すれば随分薄味でバラバラで全体に広がっていて捉えどころがなく曖昧模糊としているが、これがまた何度も聴いているうちにその「感覚」の方がこちらの心に沈澱して定着しているようなタッチが嗅ぎ取られてくる
のだ。反復の魔法、リフレイン・マジック。同じ意味か。兎に角、その、Hikaruの"歌"に集約されてしまわないUtada Hikaruの"好き"が、熊淡には断片的にではあるもののちりばめられている。
言わば、熊淡はUtada Hikaruの心のジグソーパズルのようなものだ。まだまだ、たった2時間ではピースが足りない。もっともっと埋めていかねばならない。しかし、今組み合わされている数少ないピースの形作る断片的な"絵"も、じーっと眺めているうちに、こっちはこんな風じゃないかな、あっちにはこんな風に続いてるんじゃないかな、といった妄想という名の仮説が自然に湧き上がってくる。それを心の中に携えて次の回を聴く事で、よりHikaruの心のありように近付いていけるように思うのだ。
尤も、それは集中力にはかなわない。やはり、Hikaru自身が精魂込めて作った楽曲5分の方が、何時間にも及ぶラジオ番組の選曲を上回って、彼女のマインドをこちらに届けてくれる。だからこそ、その中でHikaruが熊淡弐で「桜流し」を選曲した事が意義深いのである。曖昧模糊とした"好み"の中に設えられたHikaruの凝縮された心。断片だらけのジグソーパズルの中に突如として現れた、それひとつで絵画として完成しているワンピース。そのワンピースが、バラバラのジグソーパズルの中でどこらへんにはまり込んでいくのかを夢想するのが限りなく楽しいのだ。非常にシンプルに、Hikaruは自分で書いた曲が好きな筈である。でなくば完成なんかさせない。嫌いな曲なんか作らない。好きでも嫌いでもない曲はもっと作らない。つまり、Hikaruが自分の曲をラジオで選曲するのもまた必然なのだが、それは今回述べている"曖昧模糊とした捉えどころのみつけにくい統一感"の中で一体全体「何である」のか、がいちばん難しい問題
なのだ。その感覚を纏った空気の中で聴く「桜流し」は、今まででは思いもよらなかったようなクオリアをこちらの心の中に生成してみせる。Hikaruの好きな歌たちとともに響くHikaruの生み出した曲…これは多分、Hikaruの言う"エヴァンゲリオンのダシの部分"そのもののように思うのだ。恐らく、シン・エヴァンゲリオンでHikaruが新曲を書くのであれば、こうやって桜流しを自分のラジオ番組で流したという事実は、必ずや曲作りに影響を与えるだろう。そう予感するものである。もう出来てるんだったら知らないけれど。(笑)