無意識日記々

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時代超越性と同時代性と個

楽家に対してどうしても私は「現役感」を求めてしまう。つまり、新曲を作りLIVEをやる。こうやって書くとシンプル極まりないが、実際に実行し続けるのは恐ろしく難しい。プロでやっていくとなれば尚更だ。

「新曲とLIVE」というものを求めないのであれば、モーツァルトビートルズを聴いて一生を過ごせばいいじゃないか、という皮肉?悪態?いや"正直な気持ち"がそこにはある。実際、楽曲、特に器楽演奏は時代や地域と無関係に響いてくる上に、ここが重要なのだが、技術の進歩と殆ど関係ない。必要なのは鼻歌が歌える程度の器官であって、もうそれ以上は必要がない。

例えば、映画を例にとれば、黒澤明の「生きる」でブランコを漕ぎながら命短し恋せよ乙女と歌う志村喬の姿や、Just singing in the rain〜♪と雨に唄えばジーン・ケリーのダンスは最早映画そのものより有名だ。名場面を印象付けるのに歌はかくも効果的なのか、と思うが、それはもうシンプルに、歌詞がなにを言っているかわからなくても「さびしそう」「たのしそう」というのがメロディーから伝わってくるからだろう。

人間のシンプルな感情を表現するのに、音楽は非常に有効な手段だが、だからこそ新しい曲を作るのは難しい。"クラシック"というジャンルが多くの国で現在進行形で人気があるのは、そういった"音楽的手段"がある程度その時代に出揃ってやり尽くされていてその伝統力により質がぶっちぎりに高い、というのが理由だろう。確かに、J.S.バッハの質と量には未だに誰もかなわないが、もう何百年前の人間だよ、と思わなくもない。

不思議といえば不思議である。陸上競技の世界記録はいろんな種目で毎年塗り替えられているというのに…尤も、これもいつか頭打ちになるのかもしれないが。

そういった中で「新曲を作る」という行為は、今という時代、ここという地域性に依拠した、独自性のあるもの、踏み込んでいえば、今までの時代の人間が感じた事のないような気分や感情を表現するものとして価値を発揮するだろう。流行歌というのは、本来そういう"受け皿"として機能していた。

Hikaruの場合、そういう"同時代性"に関しては奇妙な立ち位置にある。というのも、時代の機運というものを飛び越えてひたすら個人として売れてしまったからだ。例えば、X JAPANLUNA SEAの後に続々とヴィジュアル系バンドがデビューしたり、ファミリーとして組織的に後続を出し続けるアイドル勢のようなシステム・系譜を一切作り出さなかった。つまり、宇多田ヒカルは流行ったが、宇多田ヒカルは流行りを作り出さなかったのだ。少しややこしい話だから、続きはまた次回。