無意識日記々

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音フェチ

先週は風立ちぬ特集という事でアニメの話題ばかりだったが、どうしても時代的に、ミュージシャンも視覚についてあらためて考えないといけないんだろうなぁと思った次第。

PCと携帯電話によって人が手元で視覚情報を得る時間が極端に増えた。文字はいわずもがな、画像、そしてスマートフォン以降は動画もあっさりとすぐに見られるようになってきた。人の感覚入力のうち、視覚の比重が大きくなっている。

宇多田ヒカルも勿論そこは予め手を打ってある。UTUBEの開設と、それに伴う映像監督作品である。2010年の時点であれを"置き土産"にしたのは、単なるファンサービスのつもりだったのかもしれないが、空白の期間も過去の名曲を忘れ去られない為にもちょうどよかった。あれのせいでバックカタログの売上が、と心配する向きもあろうがそもそもどんな曲があるか知ってもらわなければ手にとっても貰えないだろう。

映像重視路線は引き続き徹底していて、桜流しもフィジカルはDVDシングルだった。後にサントラにも収録されたけどね。


…と、言っていたそばからラジオ番組である。いきなりここでアナクロだ。しかも、第3回はスネア特集。内容はいわば「音のフェティシズム」で、ミュージシャンとして、音楽ファンとして、徹底して音にこだわっている姿勢をみせた。ブレない頑固さ、というよりこの人は元々自然体が普遍的なのだ。それがヲタクっぽくみえる、というのは単に時代の方が反対側に傾いでいるというだけだろう。いやそれも言い過ぎだけどさ。

これからもHikaruは映像を重視してくるのは間違いないと思うが、熊淡でみせている音フェチぶりは、そういう新しい試みも総て音楽を軸に展開していくのではないかと思わせる。もしもう一つ軸が出来るとすれば作家業だろうが、こちらは言語の選択が音楽以上にアイデンティティクライシスとして問題となるだろう。Hikaruの多彩を人格的に整合させるには、スネアの音色にこだわる態度を主軸とするのが最も合理的かと思われる。尤も、軸や合理性といった"狭い"考え方だけでは、とてもHikaruの多才を捉え切れるものでも、ないだろうけれど。