無意識日記々

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A Novelist Or 作家か?

光が作家業に…手を染める?足を突っ込む?没頭する?まぁどれでもいいけれど、本格参与するとなれば「いよいよか」という感じになるだろうが、ここでの"言語の選択"の問題は如何にも難しい。歌でも随分悩ましかったが、例えば小説を書くとなったらどちらを選ぶだろうか。

世界中の人に読んでもらいたい内容であれば迷わず英語だろう。人数でも国数でも日本語ゆり遥かに大きい。人数だけなら中国語というなもありだが光が中国語を操れるという情報はないし、ネイティヴである英語が現実的だ。

一度英語で書いたものを、さて日本語に訳す作業は誰がやるのだろうか。当たり前だが光以上の適任者は居ない。しかし、Utadaの時には対訳を基本的に自分以外の人間に任せた人だからそう一筋縄ではいかない、というか翻訳って多分新しく本一冊書くだけの労力が必要だろうからそれが体力的にも精神的にも可能かというと難しい。

そして、もう一つ問題がある。光なら、万が一翻訳に取り掛かったとしても、内容を変えたくなってくる恐れがあるのだ。"光"と"Simple And Clean"を想起しよう。まるで対極の視点から描かれている。まるで裏と表である。あれ?そういやCOLORSのシングルに"Simple And Clean"の歌詞対訳って載ってたっけ。思い出せないや。一応一節だけ思い出しながら訳してみると、「愛してるよハニー。でも、だからって僕が君のお父さんに会わなくっちゃいけないっていうのかい?」みたいなトーンの内容なのだ。ぶっちゃけ"光"と真逆である。

このように、似たような話を全然違うトーンで語るような歌詞にした理由が一体何なのか、正確にはわからない。例えばキプトラの"国家公務員"というフレーズについて、ヒカルは意味上の要請については説明しても肝心の"語呂"については説明しなかった。ありゃ多かれ少なかれ"コッカコウムイン"という音の並びが欲しかったという理由がある筈なのだが。同じように、"光"と"Simle And Clean"にも“歌ならでは”の、音韻上の理由で歌詞の語るストーリーを変えたのかもしれない。それは、正直わからない。

もうひとつ変える理由として考えられるのは、「流石に日本語では歌いづらいストーリーだから」というものだ。これは、英語詞が先に来ているケースだが、この実例は勿論"Sanctuary"と"Passion"である。やっぱり、なんだかんだで日本語で「天使が空を飛び」とはなかなか歌いにくいと思うのだ。なので、かどうかはこれも正直わからないが、"Passion"の詞世界は"Sanctuary"とはまるで異なる路線で描かれている。Single Versionに至っては「年賀状は写真付きかな」である。まぁ、これも何となく嘘と恐怖が溶け出しそうではあるけれど…。


という訳で、光が(既に大昔から決まっているペンネームで)小説を書くとなると、もしかしたらひょっとすると同じタイトルの小説を、英語版と日本語版で種々を違えて書いたりするかもしれない。上述したように、それはもしかしたら歌の歌詞特有の事情かもしれないし、そうではないかもしれない。しかしいずれにせよ、どちらの言語でも同等に文学に親しんでいる光なのだから、他ではみられないような作品の書き方をする可能性は大いにある。その日を気長に待ち望むとしよう。