無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

それだけのことなのだ

なんか、ゆっくりいこうか。そんな気分である。焦っても苛立っても事態は何も変わらない。我々に取材能力があるわけでもなし、そういうのはいずれにせよ、本職さんたちに頼るしかない。その出来不出来に言いたい事もあるのだろうが、まぁ、言っちゃえばいいか…それが自由の国ってもんだ。

ただ、なんだ、あれだ、@utadahikaruにお悔やみツイートを送りつけるのは如何なものかというのは如何なものか。チャットでも書いたが、母親が亡くなった時にTwitterなんてしてる暇なかろう。空き時間にダイレクト・メッセージをチェックするくらいじゃないか。こんな時にファンの反応を気にする余裕も必要も責任もない。読みたくなったら読めばいいし、読みたくなければ読まなくていい。まさかこんな時まで「有名人はメンションに総て目を通すべき」だなんてモラルを振りかざすんじゃああるまいな。それはないか。Hikaruがどんなツイッターアカウントを使っているかはわからないが、あれだけの数のメンションは数日も経てば流れちゃって読めなくなる。送る人批難する人双方ともHikaruの事を思いやっての言動だろうに殺伐とした空気になっているのは何ともいたたまれない。双方静観或いは放置がよいかと。端的にいえば、Twitterってのはそういうツールだよ、とそれだけの事だ。こんな時に連絡を取り合うべき知人とは必ず他のツール、電
話やメールやFacebookやLINEや…なんでもいいんだけど他のチャンネルを共有している筈だし、使うとしても先述の通りダイレクトメッセージまでだろう。そこまで気にするようなツールじゃない。Hikaruに対して酷い事を言っている人は今回の事がなくても普段から言い続けているし、Hikaruもイヤならブロックすればいい。それでも全部読むというのなら覚悟の上なんだろう。彼女は誰が思っているよりメンタリータフである。『私、誰よりもプレッシャーに鈍感なんだと思うの。でないとこんな仕事やれないよ。』


しかし、その屈強なメンタル・バランス(フィジカル・バランスは結構何度か崩れてるわな…)を、平常時に崩していたのが母の存在だった。どんな罵詈雑言や誹謗中傷を送りつけられてもそれを優しく包み込む位に対応してきたHikaruも、こと母親に関するメッセージを書く時は冷静さやバランス感覚をあっさり失う。母親のポスターを部屋に飾ったり、名言『ダウンロード違法化がなんぼのもんじゃい』を残すほど動画を漁ったり。また、インタビューでの発言をはっきり『後悔している』と断じたのは、後にも先にもあの時(2007.3.22のメッセ参照)くらいではないか。世界で唯一、何があってもフェアに、且つ人間的な情感をもってバランスをとってきた精神が唯一崩れるのが母との空間だったのだ。

それは、世界で唯一甘え頼り崇められる存在であった事も意味する。バランスを取り続けるには集中力と緊張が居る。誰しもを柔らかにするHikaruの笑顔は、その緊張の裏返しでもある。そういう事を気にせずに思うままにいろんな表情が出来る相手が母だった。私はずっとそう思ってそう書き続けてきた。それが正しかったかは、今に至ってもやっぱりわからない。これから先は、もっとわからなくなる。それでも時計は動き続ける。それだけのことなのだ。