無意識日記々

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人に「愛してる」と言うとき、それはどこまで"純粋"だろうか。「○○のこと好き?」とこども(の頃の私)に訊けば、食事を与えてくれる人やおもちゃを買ってくれる人、一緒に遊んでくれる人などの事ならそれを思い浮かべて「好きー」と答えるだろう。現金だが、そんなものである。というか、そういった"なにがしかのやりとり"を通じてでしか、愛情の確認なんて出来ない。それは抱擁や口づけかもしれず、お小遣いかもしれず、言葉かもしれず。

もしかしたら、それは一方的なものかもしれない。こちらからずっと与え続けているだけで何の見返りもない、こちらが奪い続けているだけで何のお返しもしていない。しかしそれでも、それは"なにがしかのやりとり"のひとつだ。無償の愛とか献身的な愛とか、言い方は色々あるが、一方的に施し、一方的に施されるのもまた愛だろう。Give&Give, Give&Take, Take&Give, Take&Take総てが愛情表現のかたちである。そう思う。


しかし片方が死んでしまった時。もうそういった"なにがしかのやりとり"は出来なくなる。与える事も、奪う事も。微笑みかける事も、話し掛けられる事もない。一方通行ですらない。こっちから投げるあっちがもうないのだから。投げつける事も押し付ける事も出来ない。おはよう、と言っても返事はない。それが死である。


しかし人は。誰かが死んだ時、その人の事を「愛してる」「愛してた」ときっぱり言う。もう何のやりとりも対話も不可能なのにその人への愛を語る。事実、死んでしまった人の事を愛していると真剣に語る。今でも、そして、いつまでも。



今回メッセージを寄せてくれたヒカルと照實さんは、純子さんへの愛を強く強く打ち出している。純子さんからは様々なものを与えられ、様々なものを奪われた。様々なものを彼女から奪い、様々なものを与え続けた。その関係性が今や総て溶けた。溶け出してなくなった。強烈な後悔と居心地の悪い安堵の狭間から、娘と元夫が強烈に放つのは、母への、元妻への愛の言葉だ。その力強さ。邪推を承知でいえば、2人は今、今までのいつよりも純子さんへの愛を強く確信しているのではないか。

世間的・常識的感覚でいえば、2人は彼女から何年も迷惑を掛けられ続けた、という言い方もできるだろう。ある意味、今回の自殺で解放されたともいえるし、事実そうなのではないか。平たい言い方をすれば、もう2人は純子さんから迷惑を掛けられる事もなくなった、という寂しさに見舞われているともいえる。奇妙な共依存関係である。


しかしやはり、この力強さはそうではない。もう、なにがしかのやりとりを純子さんとする事は出来ない。最早、今後の彼女の行く末を心配したり不安になったり機嫌のよさに安心したりする事もできない。煩わしさや、依存や、被依存といった関係も構築出来ない。


それでもなお、残った感情がある。それが愛だ。剥き出しの、損得も計算も何もかも削ぎ落とした、私が居て、貴方が居た、ただそれだけの事で生まれ育んだ感情、それを愛と呼ぶ。呼ぶしかない。私は他に思い付かない。

『すべての終わりに愛がある』とは、そういう事だったのか、と私は思った。一緒に過ごすと楽しいとか煩わしいとかその人に対していろんな感情が湧き上がる。しかしその人が死んでもう何のやりとりも対話もできなくなった時、その時にその人に対して抱く感情が愛なのだ。ヒカルと照實さんは、彼女を喪った事で、今までも勿論そうだったろうが、今まででいちばん、純子さんを愛していたと強く感じたのではないか。彼らのメッセージには、その強さが漲っている。桜流しの最後の言葉。Everybody finds LOVE in the end. 純子さんの最期にあたって、如何に彼女が2人から愛されていたか、その事を今まででいちばん強烈に感じた。それがまず、2人からのメッセージを読んだ第一印象だ。


そして、第一印象は序章に過ぎない。私は踏み込んでいくつもりだ。何故なら、ヒカルが今、とても強く在るからである。母親の事をあそこまで赤裸々に、今、語れるというのは並大抵の精神力ではない。少なくとも、そう振る舞っているからにはそう見られたいのだ。それが、形式的であれ彼女の"希望"である。私はそれに応える事にする。みんなは、そっとしておくもよし、Mail To Hikki するもよし、それぞれの心の声に従ってくれ。私は止めない。私も止まらない。


さて、本題。くまちゃんの話である。「5歳」から始めようか。躊躇してられる程、人生は長くないのだから。いや私はおばあちゃんを見習って100歳までは生きる気だけど、それでもやっぱり短いもんね。