無意識日記々

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くるっとまわって

昨日2020年五輪競技大会が東京開催に決まって、「あ〜ならヒカルは37歳か。開会式で歌うのかな。いっそのことパラリンピック開会式のプロデュース任せてみたいけどスケジュールの都合で断られるんだろうな」と妄想していて気が付いた。あれだけ当初気にしていた「恒久的な引退」がもう私の頭の中にない。あー焦りすぎ、焦りすぎ。

願望と展望は分けて考えるべきだ。しかし、願望を口に出しひとりひとりが言動を変えていけば展望もまた変化してくる。傍観者が被観察物と不可分に影響しあう、という世界観は、なんだろう、モダンというには古めかしいが、「テレビを見る」という生活習慣が定着している向きにはちょっと異質なのかもしれない。

長らく、"テレビの中"というのは不可侵の領域だった。せいぜい、プレゼント応募やクイズ参加といった形で関わり合えるだけで、それも極一部の人たちに限られていた。基本的には、テレビは上意下達だったのだ。

ネットの普及で、それは少しずつ変化しつつある。特にニコ生のシステムは画期的で、コメントとアンケート参加が番組の構成すら変化させる。番組のクオリティは全く地上波のコンテンツにかなわないものの、こちらをメインに生活する層が増えてくれば、テレビを中心とした生活習慣も徐々に変化していくかもしれない。それは、社会的精神構造の変遷を意味する。

宇多田ヒカルというコンテンツは両方の側面があった。テレビで接する人たちにとっては何年に一回か突如現れてはまたすぐに音沙汰がなくなる、いわばそれこそオリンピックのようなイベント型の人間だった。しかし、WebでMessage from Hikkiを読んでいる方にとっては、日常の楽しみの一つだった。ここに、ひとつのギャップがあった。

今回の件で集中砲火的にスポットを浴びたのも、そのテレビにおけるビッグイベント的なキャラクターが響いての事である。そっちの体質を理解していないと、なかなかギャップは埋まらない。彼らにとっては、また彼女は"長い沈黙"に入るのだろう。人間活動もその一環に過ぎない。しかし、こちらにとってはこれからが本番、というかずっと本番か。絶え間ない日常の中での宇多田ヒカルなのであるから、意識の違いはしっかりと意識しておかなければならない、かな。どっちでもいいか。そだね。