無意識日記々

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アルバムならではの作風の曲の存在

なんでまぁこう延々とポール・マッカートニー御大の話を続けているかというと、大局的・総合的な意味においてこうやってHikaruの参考になる・尊敬できるミュージシャンが世の中には極端に少ないからだ。P.J.Harveyの話をきいて私が喜んでいたのも、Hikaruにそういった存在が現存する事を知れたからである。

アルバムという"単位"については、過去に結構話してきたのであんまり繰り返さない。Hikaruの次作はもしかしたらオリジナル・アルバムすっ飛ばして「Single Collection Vol.3」になるかもしれない、という結論だった。アルバム・アーティストとしてみられている割に、アルバムの作品性という点に関しては、シングル曲の大ヒットがいずれも存在感強すぎて霞んでしまっている印象なのである。

確かに、制作途上でそのアルバムの作品性という観点からも曲作りに取り組んでいる風は垣間見れる。HEART STATION制作時、最後の締切間際に"しみったれたバラード"とやらをお払い箱にしてCelebrateを突貫工事で仕上げた話は記憶に新し…って書こうとしたけどもう5年以上も前の話か…。

なので、今までのHikaruのアルバムは、てんでバラバラなシングル曲の合間を"アルバム曲"で埋めてひとつの作品にまとめあげられていた、いう風な言い方が出来ると思う。違う言い方をすれば、アルバム制作というプレッシャーがあったからこそ生まれてきた作風もある訳なのだ。シングル曲ばかり作っていると、そういった面が失われてしまうのでは、という懸念もある。

最近はどうか知らないが、洋楽ではまずアルバムを作って、そこから順次シングルカットをしていく、というのが伝統の手順だった。その為アルバムがロングセールを記録した。邦楽では、まず何曲もシングルヒットを出してから、ヒット曲満載ですよとアルバムを出す。よって初動重視型。そういった違いがあった。

これを当てはめて考えてみると、アルバムアーティストとしての方向性について眺めてみる場合、宇多田ヒカルのアルバムとUTADAのアルバムで区別する必要がありそうだ…という話からまた次回。