無意識日記々

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欲張るバイリンガルのファンが居る

整理してみよう。邦楽の宇多田ヒカルの方は、2ndアルバム以降5枚前後のシングル盤を出した後にアルバム制作に取り掛かり、シングル収録曲と同数程度のアルバム曲を揃えてアルバムを作っていた。これは、単純に邦楽におけるサイクルを踏襲したものであり何ら特別な側面はない。一方、洋楽のUTADAの方は、一通り楽曲を揃えてから2曲ほど先行公開する形でアルバムを発表している。こちらも単純にアメリカ市場での習慣に則ったものだが、2枚ともそれぞれの理由でアルバム発売後のプロモーション活動が機能せず、「第2弾第3弾のシングルカット」という雰囲気は作れなかった。まぁここらへんは些か片手落ち(毎度お馴染み放送自粛用語)な感は否めない。

さて。では、と当然みんな考えるだろう、これからは一体どうなるんだ? ユニバーサルミュージック内の国際レーベルEMIと世界契約を果たして、一体何をどういう形態で発表するのか。今までもさんざシミュレートしてきたが、勿論の事何の結論も出ていない。出せる筈もない。何しろ、肝心のHikaruがどうしたいかを、誰も知らないからだ。もしかしたら、Hikaru自身も知らないかもしれない。

邦楽型でも洋楽型でも、どちらを選んでも恐らく「アルバムとしての作品性」は板挟みになる。日本語で歌うか日本語で歌うかで市場は変わり、アルバムの質も変化する。事前に余程綿密に計画を建てておかないと、自分が今一体何をしているのかわからなくなってしまいそうだ。

「アルバム」という単位は、アメリカ市場ではまだまだ根強い。配信の割合はあちらの方が大きくなっているらしいのだが、何故だか向こうがシングルチャート主体に変化しているという話はきかない。ここらへんは当地に住んでいない私にはわからないが、少なくとも「アルバムを楽しむ」という娯楽の枠組みは、アメリカではまだまだ健在な感じがしている。

私が「宇多田ヒカルの次のアルバムはSingle Collection Vol.3になるのではないか」と言う時、それは邦楽市場のみを想定した物言いである。洋楽作品を作る事は想定していない。なので、例えば、だ。ひょっとすると、Utada Hikaruは、日本語曲はシングル盤で出し、英語曲はオリジナルアルバムでまるごとどんっ!と提供する、なんていうサイクルを持つようになるかもしれない。いや、"サイクル"って単語がいちいちいちばん当て嵌らない人ではあるんですがね。

そうすると、色々とやりやすいのではないか。日本語曲のアルバムは、シングル曲が揃うまで待つ。英語曲は、アルバムでたっぷりと楽しめる。何より、こちらがわかりやすい。ツアーは、その都度いろんなバランスでやればいい。In The Fleshだってあれだけ日本語曲を歌ったのだからその時のコンセプト次第だろう。

そうなると、しかし、勿論、「日本語のアルバム曲」の名曲が、誕生しなくなる。これはとても痛い。例えばテイク5が生まれてなかったらと思うとゾッとする。なので、今まで通り、名義だけ統一して、日本語曲盤と英語曲盤を交互に出していくのが現実的な路線か。何より、いちばん収益を上げるのが今のところ「日本語曲アルバム」なのだから、レコード会社はこれを必ず作れと言ってくるに違いない。しかし、本当にそんな感じの活動でいいのかな。世界には、英語で歌うHikaruを待ち望んでいる人、或いはこれからそれに魅了され得る人々が、やまのように存在しているというのに…。この問題、まだまだ終わりそうにない。活動が始まってないんだから当たり前なんですがね。やれやれ、だ。