圭子さんがヒカルの曲を聴いていたと耳にしていちばんに思い付くのは、やっぱり嵐の女神な訳だが、如何に直接『お母さんに会いたい』と歌っているとはいえ、これを字面通りだけで解釈するのは片手落ちである。
忘れてはいけないのは、歌の最後である。
『私を迎えに行こう お帰りなさい
小さなベッドでおやすみ』
ここをどう解釈するかは、以前も触れたが繰り返しておこう。元々、
『「許し」って何? きっと…
与えられるものじゃなく与えるもの
どうして私は待ってばかりいたんだろう』
という一節が予め存在する。それを踏まえれば、ただ受け身で帰ってくるのを待つだけでなく、、、と続けるのが常識的な考え方だ。じゃあ「こちらから会いに行こう」と。しかし、更にここから続きがある。「"私が"、帰ってくるのを出迎えてあげよう」と。こう繋げて初めて最後の一行が意味を持つ。手紙にはきっちり『必ず帰るよ』とあったのだから、ベッドのある家で帰りを待ち、出迎えてあげるのは必然だ。その構造が嵐の女神の骨格である。
つまり、邂逅とは待って与えられるものではなくこちらから会いに行く事でも…とまず"普通に"考え、更に出迎える所まで考えるのがこの歌の"新しい"点なのだ。最後に、家に帰ってくる「私」を迎えに行く人間に歌の視点が変化している。この変化の過程の中に『お母さんに会いたい』が挟まれているのが重要である。
つまり、「私」が会いに行くお母さんと、「私」を迎えに行く「最後の歌い手」が、結局の所重なるのだから、この『会いたい』は、自分の中に、自分の会いたい人を現せしめる事を言い表していると解釈する事が出来る。要は、「母になる」となるのだが、これは別に実際にこどもが出来る訳じゃなく"母性の萌芽"とみるのが妥当かもしれない。
それにしても、『分かり合えるのも 生きていればこそ』の一節は、響くわ。