無意識日記々

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聴いた後の見方

例の"新曲"2曲を聴いた。母子舟の方は世間の荒波に揉まれながらも女手ひとつで子を育てる母の物語で、恋して母はの方は子持ち主婦の不倫の話。いずれも藤圭子としてのリアリティはなく、普通のド演歌の役回りを演じた、というだけの事で、何だろう、正直ほっとしたかな。ヒカルがこれを聴いてもそんなに精神的に大きなものが来る気配はなさそうだ。親が不倫の歌(っつってもシングルマザー設定なら不倫じゃないか、その場合はネグレクトだな…)を歌ってるのは気分のいいものではない…ってお互い歌手だからそこらへんはわかってるか。この頃は照實さんとも別れてないだろうから女手一つというのも違うだろうし…ってスタジオ代の為に車売り払う家庭をそんな常識的な感覚で捉えようとしても仕方がないかな、ハハ。ともあれ、曲調としても、あと2、3年早ければウケたかもしれないって感じのやや時代遅れなものだし、「圭子の夢は夜開く」みたいな私小説的存在感もなくただ普通の演歌を歌っているとくればまぁお蔵入りもむべなるかなというか

そんな事より驚いたのは彼女の声である。最初、本当に「藤圭子の真似が上手い誰か」が歌っているような感覚に陥った。これが、「流星ひとつ」で圭子さんが最も拘っていた"声質の変化"なんだね…何故彼女が復帰した時に"藤圭似子"なんていうよくわからない改名をしたのか謎だったのだが、確かにこれでは合点がいってしまう。技術的には全く衰えていないし、寧ろもっと様々な曲調に挑戦できる普遍的な声質になっていると思うが、確かにこれは"あの藤圭子の声"ではない。単刀直入に言えば、あの声からこの声になったのだとすれば気が狂っても仕方がないかもしれん。となると、病院嫌い医者嫌いになっていた可能性もあるな…。

「流星ひとつ」を読んでない人に解説しておくと、藤圭子はキャリア中途で喉の外科手術をして以降声質が変わってしまった、という話である。原因がハッキリしているらしいだけに、及び、その手術は圭子さん自身が望んで受けたらしい事を考えると、彼女の性格も相俟って、自身の事を怨む以外なかったのかもしれない。自分自身を呪う事は世界全体を呪う事と同義である。事情を知らないでこの2曲を聴けば「へぇ、藤圭子も随分小綺麗な声になったじゃないか」と軽く捉えるだけだけれども、そういう意味では、ヒカルにとっても改めてショッキングなトラックかもしれない。歌詞じゃなくて声質が、ね。