無意識日記々

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動物愛護の精神と熊崇拝その1

くまちゃんの事で考えておかないといけないテーマがある。ヒカルが動物愛護をどう考えているか、だ。元々ぬいぐるみのKuma Changを相手にしているだけならそんな事を考える必要なんぞ無かったのだが、途中から(いや、多分最初からなんだろうが我々に認知されるようになったのは後々という意味で、ね)生身の動物の熊にまで「くまーっ!」と言うようになったので、これは避けて通れないテーマなんだわ。本来。

以前に指摘したように、「くまのぬいぐるみ」がぬいぐるみとして成立する為には、そもそもの実在として生身の動物の熊が居ないといけない。つまりKuma ChangがKuma Changとして成立する為のアイデンティティ/拠り所として、熊は不可欠な存在なのである。

もう1点、ぼくはくまの(まくまくんでない方の、即ち宇多田ヒカル画伯によるペンの)絵本において、ぬいぐるみデザインのくまとやけにリアルな親子熊が共存していた事を思い出そう。あの川岸のこちらと向こうの対比はヒカルの世界観を理解する上で大変重要である。なお、ベタ塗りしない線画のみによる構成を手抜きとしてみる人もいらっしゃるかもしれないが、あれはヒカルが影響を受けたダールやシルヴァスタインといった絵本作家たちからの影響を反映したものである。巧拙は脇に置いて、取り敢えず比較はしておいて欲しい。兎も角、これを見ても、ぬいぐるみのくまと動物の熊の両方が居ないと(或いは、区別して把握しないと)ヒカルの「(∩´(エ)`∩)くーまん 」な世界観は理解できない。

で、だ。ヒカルが実在の熊について特にコメントするようになったのはツイッターを始めてから…というより、ツイッターを使った方が何かとやりやすい話題だからかもしれない、にせよ、近年はかなり真剣に取り組んでいる事が伺える。もしかしたら、人間活動中の主だった課題のうちのひとつとなっている可能性もある。

まず私が把握したいのは、毎度お馴染み「ヒカルはどうしたいのか、何をどう変えたいのか」、の一点だ。音楽活動に関しては、事前のプランやコンセプトなぞなくても構わない、締切までに仕上げたものがオファー元を満足させれればそれでいい。しかし、くま活動についてはそうはいくまい。彼女は、誰に頼まれた訳でもない。自分からくまくま言い出したのだから、「こうしたい」というヴィジョンが先にあってそれを他者に提示出来なければ本当にどうしようもない。

私の浅い理解によれば、ヒカルは、昨今増えている熊による人的物的被害を減らすと共に、それによって人と熊が対立したりいがみ合ったりする事無く、平和に共存共栄したい、という願いを持っているのではないか。そう捉えている。

つまり、無闇に「熊を殺すな!」と主張しているのでもなければ、勿論真逆の「熊なんか殺してしまえ!」と主張しているのでもない。「熊は神聖にして不可侵の…」とか言い出す気配もまるでない。幾ら熊崇拝がどうのと普段は言っていても、そこらへんはきちんと現実的だ。ただただ、人と熊の間にある問題を解決したい、そう願っているのではないか。

なので、確かにそれは「動物愛護」と言っても随分と穏当なもので―と書くと私が誤解されそうだからハッキリと付け加えておこう。Webには大量の「動物愛護活動家を貶める発言」が散見されるが、その殆どが印象操作だ。どんな活動の中にも過激派は居るもので、それはどの分野にも共通のものだ。動物愛護の精神は、その主流は常に大半が穏当で真面目な人たちである。その中から過激派だけを取り上げて論らうのだけを眺めていると認識が歪む(現実を反映出来なくなる)。Webは直接活動に関わっている人たちの声に耳を傾けられるツールである。伝聞ですらない、当事者たちに会った事も無い人たちのコメントの相手をしても時間の無駄だ。実際に活動して発言する人の所に詣でよう。

珍しく熱く(暑苦しく)なってしまった。この論でいくと、ヒカルと会った事も話した事もない人の書いてるこんな日記は何の価値もない事になってしまう事に今更気がついてひとり落ち込んでいるのだが、気を取り直して次回もこの話の続きを書いていきますよ。