無意識日記々

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今回のツイートに対する@i_k5のリプライ

@utadahikaru
最近言葉の無い音楽の方が心地よくて、Pablo Casalsが弾く"Kol Nidrei, Op.47"と、先日亡くなったMark BellLFO名義のアルバム"Sheath"ばっかり聴いてる。
2014年10月29日 0:56

言葉のある音楽、というのは不思議なものだ。朗読に音楽をつけたもの、という場合もあるが大抵は歌を指そう。

音楽とは、恐らく明日宇宙人がやってきても魅了できる人間の文化のひとつである。波長や周波数を何らかのパターンに従って並べる、というアートは、取り敢えず我々にアクセシブルな世界においては普遍的であろう。

一方、言葉というのは本質的にローカルなものだ。一定の約束事に基づいて視覚的図形や聴覚的音声を関連付けて情報を伝達する。時によれば、お隣に住んでいる外国出身の人の言葉すらわからない。音楽にはそういう事はない。何千年前の曲であろうと、気に入る気に入らないはおくとして、あぁ、そこには人が意図をして音を並べたのだろうなぁ、というのはわかるし、多くの場合その情感すら共有できたりする。言葉にはそれは無理だ。アラビア語で書かれた本を渡されても、それが小説なのか料理の本なのかもわからない。

しかし、更に一歩下がって眺めてみると、確かに特定の言語が理解できない事はあるだろうが、一方で「その営みが言語に基づいている事」、即ち言語性という抽象概念は宇宙の至る所にあるだろう。いや、もし言語性がなければ、そもそもそこに宇宙があると知る事も出来ない。もっと言えば、宇宙の存在以前に言葉がそこにないといけない。はじめにことばありきとはそういうことだ。極端に言えば、今そこにことばがある事はわかっても、宇宙があるかどうかはわからないかもしれない、と。あなたはただひたすら長い夢を見ているだけかもしれない。宇宙なんかないかもしれない。それでも、ずっとことばと一緒に居た事は間違いない。

斯様に、"現実(の宇宙)"は、ローカルな特定の言語と、普遍性の上を行く言語性の間に挟まれている。そらはわかるとわからないのあいだにあるのだ。

だから、今ヒカルが言葉の無い音楽を心地よいと感じるのは、わかるとかわからないとかそういう事から離れたいという気持ちが強いという事だろう。ブルース・リー風に言えば、Don't think, just feelかな。

私もインスト好きなので、その気持ちはよくわかる。もっと言ってしまえば、心地よいなんていう感情は音楽の方から出てくるもので、言葉と向き合ってしまうとそこには痛みしかない。いや、他の感情もあるにはあるが、芯に最も強く感じるものは痛みである。痛みとは最も現実を反映した感覚である。「これは夢じゃない」と確かめる時、人は頬を抓る。それが、メロディーに言葉を乗せる時に起こるのだ。インストゥルメンタルユートピアから抜け出して痛みを負うこの"歌詞"とは、もう呪いのようなもので、散々苦しみを与えた挙げ句に答なんてものを与えてくれるかどうかわからない。メロディーは綺麗に着地するが(出来た時は本当に心地よい)、歌詞は、なんというのだろう、ハマればハマるほど「やっぱり間違っている」と感じるものなのだ。その間違いを私は文学性と呼ぶ。現実との違い、間違いを犯すのはことばをもつ生き物だけだ。彼らは、私たちはそういう意味において宇宙から外れている。インストゥルメンタルユートピアは夢の中のようでいてそれは
現実で、言葉は我々に宇宙の存在を教えながら痛みと間違いにまみれていく。歌はそこにできた螺旋から生まれてくる。つまり、ヒカルはこれから歌を生もうとしているのだ。その助走期間だと思えば、この呟きがより輝いて見えてくる筈である。