無意識日記々

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埋めるもの埋まらないもの産む者

先々週だったか、ワールドロックナウでU2のボノにインタビューをしたという話が出ていた。彼曰く、「偉大なミュージシャンは得てして母を幼い頃に喪っている。その欠落を埋めようとスタジアムを満員にしても、それでも埋まらない。」のだそうだ。伝聞の伝聞なので不正確な表現だが。「ヒップホップは父性の欠落だ」とも話してたそうだが、なにぶんインタビューが放送で流れた訳ではないので彼の真意はわからない。

楽家にとっての母性と父性の欠落か…と、この話を掘り下げるべきか否か悩ましい。

では、一点だけ。ヒカルは、自らに生じた母性の欠落は自らで埋める事が出来るだろう。つまり、自分が母親になればよいのだ。それが解決になるのか、自らの母性は自らの子に与えられるもので自分には与えられない。母性とは受け取って初めて満足するものではないのか、というのが当然の疑問だが、「いや、それでいいのだ。」と言い切るのが嵐の女神である。

2010年の曲を、2013年8月より前に聴くか後に聴くかで、受け止め方は随分変わる。しかし、結局「それは関係ない」というのが結論なのだろう。ヒカルにとって―いや、誰にとってでもあるのか、寧ろ誰にとってでもあるのか、母性とは存在を確認出来ればいいものであって、誰に与えたか誰に与えられたかといった事は問題ではない。そこに母性があればいいのだ。

ヒカルは、これからその欠落を埋めにかかる…と、いう訳でもない。嵐の女神が示唆するのは、母性は自分で賄うという態度なのだから、寧ろ、そこからは実の母を1人の人間としてみる事が出来るようになったという風にも解釈できる。その3年間でヒカルは母とどれだけ話せただろうか、会えただろうか。

誰しも、ヒカルが嵐の女神をライブで歌うところは想像できない。俺も、どんな顔して聴けばいいかわからんもん。『お母さんに会いたい。』とヒカルに歌われてどうすればいいのだ。全く、難しい。

これをこだわりなく歌えるようになるには、大きな笑顔が必要だろう。あざとくありがちだが、「あなたの孫がこんなに大きくなりましたよ。一度でいいから会わせたかったです。」という文脈で『お母さんに会いたい』と歌えるなら、何か格好がつく。その体裁が果たしてUtada Hikaruのライブコンサートに相応しいのか、という疑問は残るが。


今度のSCv2のハイレゾ配信で、嵐の女神も高音質で甦る。あのエモーショナルな歌唱の細部を体験できるのだ。それは確かに、魅力的だなぁと思う。細かな息づかい、消え入りそうなビブラート、丁寧なブレスなどがより鮮明に再生される…事に、期待しよう。生楽器が中心なので、そちらの鮮度も注目である。


ボノの言葉をもう一度咀嚼する。それは男性視点だからなのか、それは母性は与えられるものだという思い込みからなのか。彼の真意はわからないが、ある意味ヒカルはそういう段階はもう過ぎている、いや、過ぎていた、のかな。昨年の夏でまたぶり返した事もあるかもしれない。わからない。余計な詮索はせんとくわな。