無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

UNOってイタリア語だよね確か

4人でUNOなんて言われてもごらく部の事しか思い浮かばない私はさておき、Hikaruのこったから1人だけ真剣に勝ちに行って7戦5勝とかそんな気がする。UNOなんてコミュニケーション・ツールなのだから楽しくテーブルを囲めればそれで…と思うのだが、類は友を呼ぶと申しますか、あと3人も同じように血眼になって勝利を貪ってくる中で7戦5勝なら大したもんだよね。そんな殺伐としたUNOには参加したくもないし見たくもないが、笑えるという意味では見てみたい。どうでもいい事にムキになれるって平和の証だもの。心が老いててすいません。

それは、でも、"時代遅れ"かもしれないなぁ、と時々思う。これからこの国は人類史上未曾有の?超高齢化社会を迎える。皆で老人の世話をするだけの社会、とセンセーショナルな言い方をしてしまおうか。親だろうが誰だろうが、人より勝ろうとか出し抜こうとかそういう、なんて言うんだ、"生き馬の目を射抜くような生き方"を標榜する人間は、そもそも社会に不適応になっていくのではないか。

一昔前、運動会の徒競走で順位をつけない事が話題になっていた気がするが、今思えばそういうのは"過適応"だったのじゃないかなぁと。老人の世話とは、ひたすらこれから悪くなるしかない未来を胸に手に前に進んでいく営みである。自分のキャリアを華々しいものにしたい、という人は一切向いていない。日々幼児にかえっていく老人を前にして自分を維持し続けられる、いわば"負け続けてもへこたれない"人間が適応的である。

「何度負けても勝つまでやる」という不屈の闘志の"へこたれない"ではない。どこにも誰にも勝利も栄光もなく、最後に待っているいちばんの救いは死であるという生き方。これが普通になっていくのだ。徒競走の件は確かに行き過ぎだなぁと思うけれども、やり方が過剰且つ過敏過ぎただけで、方向性はそっちでよかった気がする。

勿論、華々しいキャリアを今まで以上に築き上げて大金を稼ぎそれで何人もの老人を養ってやる、という気概溢れる人も居るだろう。それはそれで讃えたいが、問題の本質はそこではない。金が足りてようが足りてまいが、地球上の誰かが老人の世話をしなければならず、その仕事内容に(少なくとも今のままでは)劇的な変化はない。ひたすら地味で憂鬱な作業の連続である。お金を稼いだとしても、それは誰かに任せられるようになった、という事なので、少ない若者とそこそこ元気な老人で老人の世話をするという構図自体には何の変化もない。移民? 若い人が増えるかもね。その分、祖国の若い人は減るんだろう。結局は同じである。


何を関係のない話を、と思うが、Hikaruの性格には両面があるのだ。慈しむような優しさと、燃えたぎるような勝ち気の両方を持ち合わせている。Hikaruの持つ慈愛とか、ダメなヤツに寄り添えるセンス・オブ・ユーモアは、まさにこれからの時代に必要な資質で、だからHikaruの歌声はこれからの若い人たちにこそどんどん響くだろう、という見立てと、テトリスやUNOにムキになれる平和で上向きな精神は、やっぱり時代遅れで、全然響かなくなっていくんじゃないかという懸念の、両方がある。どっちになるのやら。

私からすれば、両方を持ち合わせているからよいのだ、と思える。ただ沈んでいられるのは麻痺だし、ただ浮かれていられるのは無視である。麻痺も無視もせず、痛みと向き合い幸せになる事を躊躇わない"生きる強さ"を、Hikaruは持ち合わせている筈である。それをどう引き出すか。"楽しい"はきっとそこから生まれてくるだろう。希望もたまには、悪くない。