無意識日記々

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MOTHER? MONSTER? or MORE??

ヒカルが「甘え下手」になったのは、今となっては、どうやら5歳位の頃からのお母さんの様子に原因があるらしい、と推測できる。いや、出来てしまう、とでも言った方がいいか。どこまでも推測に過ぎないのだし、この件に関しては、ヒカルも一生口を閉ざしたままかもしれないし、それも致し方ないと思えるからだ。

確かに、幾つかの事が符合する。ヒカルが浦沢直樹に語った、5歳の時に出会った"MONSTER"が「母親の姿形をした知らない人」だとすれば、確かにもう人として人に期待するなんて事は出来なくなるのかもしれない。自分の5歳の時の心理を思い出すと、もし母親が「知らない人」になってしまったら、間違い無く血も涙も枯れ果てる。あの年齢の幼児にとって母親は世界の中心であり、言ってみれば世界の中心だ。いや5歳だと微妙かもしれないけれど、大体そうだろう。別にそれが実母である必要もなく、ただ、その歳になるまで生きている為には誰か「育ての親」が必須であって、その人から梯子を外される、いやさ、地の底を抜かれる体験をした事があるかないか、だ。そしてヒカルはそれを体験したかもしれない。ならばそりゃあ…甘え方なんて忘れてしまうよな。

他者に期待しない、依存しない、人を傷付けたくないし、自分が傷付きたくもない。これを極めていくと確かにテイク5の歌詞になる。この"5"が年齢の事である可能性は低いけれど、ジャズでも何でもないこの曲にこのタイトルを付けた理由を改めて訝りたくもなる。それはいいとして。

しかし、先日指摘したように、人として成長していくには、いや、更なる成長を目指すには、人から甘えられる事は最早必要不可欠だ。ヒカルのもつスケール感の受け皿としてはもうそうするしかないとでも言おうか。

ただ、ヒカルの少し突き放した所が好きだというファンは多いだろう。「私だけのヒカルちゃん」像はそこのところと表裏一体だ。確かに、持ち味が変わってしまう。しかし、Show Me Loveの歌詞に歌われているように、一度登りきった山より高い所を目指すには違う山に登るしかない。

母親になってみる、というのはキッパリしたひとつの解答で、ヒカルからすれば俺らみんな赤ん坊みたいなもんだから…という風な視点に推移したら、ヒカルからの母性に皆が包まれ…ないか。何より母性に大事なのは安定であるのだから。こちらが喜んでいようが悲しんでいようが怒っていようが落ち込んでいようがいつものように柔らかく笑って受け入れてくれるのが母親なのだ。理想論だけれど、こどもにはそう見えているし、それが"期待"という感情の源泉なのだ。甘えたり期待したり頼られたり、といった世界観に、ヒカルがどれくらい足を突っ込んでくるかが、今の私のヒカルが復帰した時の興味のひとつである。