「他者の目線を気にして作った音楽」は、不思議な事に、他者の目線を気にして生きている人に響く。それぞれ話のレベルは違う筈なのだが、そうならないという論拠もまた、無い。音楽を聴き慣れた人間の感想なのかもしれないが。
少し言い方を変えれば、自らの耳目に基づいて価値判断をせず、人の顔色を窺い、趨勢を読んで有利な方につくスタイルの話である。俗に言う“勝馬に乗るタイプ”だ。
それを音楽的に実践し続けているのがU2だ。昨年私のところにも御多分に漏れず彼らの新譜がやってきたのでその時に聴かせてもらったが、その「最大多数を狙って勝ちに行く」姿勢は相変わらず健在だった、というかかなりわざとやってんじゃねーかコレ感が強かった。彼らくらいビッグになると彼らが勝馬に乗っているのか彼ら自身が勝馬なのか最早わからないが、まさにこれこそ「他者の音楽」のお手本に相応しいPop Musicそのものという作風だった。サウンドは基本ロックなのにね。
こちらは根っからのメタラーなので、勝とうが負けようが、追い風だろうが向かい風だろうが、雨の日も風の日も自らの愛するものを愛するのが基本だ。そんなに人目を気にして音楽に接して楽しいかねぇ?と思って生きてきた。「しゃらくさいなぁ」と。でもまぁ、歳をとったせいでそういうのもまたアリだなと思えるようになってきた。好きな音楽のタイプは相変わらず変わらないけれど、「それはそれで」と楽しみ方を増やした気はする。
Hikaruの音楽はその点、ずっと難しい。この「ずっと」は時間的に続いてきた事と程度が甚だしい事の両方である。テーマとして、人との距離をはかりながら如何に自分らしい生き方をするか、自分らしい歌を歌うかというのがテーマだった。For YouからDISTANCE、そしてFINAL DISTANCEから光へという流れを思い出せば明らかだろう。
『誰かの為じゃなく 自分の為にだけ 歌える歌があるなら 私はそんなの覚えたくない だからFor You』―ここでは歌の在処が自分の内面だけでなく他者の存在を必要とする事があからさまに表現されているが、しかしその他者とは"You"である。
U2が勝馬に乗ってる乗ってないの話に出てくる“他者”とは“第三者”の事だ。皆は今何をどう感じているのだろう、と探りを入れたり訝ったり信じたり疑ったりする立場である。
しかし、Hikaruは一貫して、他者として「あなた」という二人称に狙いを定めている。つまり、自らの表現としてのアート、或いはアートとしての音楽が一人称で、U2のような"大衆"を相手にした他者の音楽は三人称といえ、そしてHikaruの音楽は二人称なのだ。
EXODUSのOpeningでもこう述べている。『私が飛び越えたいのは、ジャンルとジャンルの間ではなくて、あなたと私の間なの』。今私が訳しただけだから新谷さんの訳とは異なるかもしれないが、ジャンル分けとはまさに三人称の仕業である。彼はあちら、彼女はそちらという風に。あなたと私ならば、ジャンル分けなんて要りはしないのだった。
そこが、Hikaruの特異性である。Popなのに誠実さを感じさせるのは、つまり、勝馬に乗ろうといつでも寝返るような尻軽さがないのは、"あなたと私"に焦点を絞っているからだ。確かにそれは他者だが、Hikaruに魅了された人は多くが「私だけのヒカル」「彼女は私の事をわかってくれる」と口にする。歌があなたとヒカルを「あなたと私」の関係に持ち込むからだ。歴史の何が凄いって、その二人称の音楽が三人称の音楽のどれよりも売れてしまった事だ。この国では。
とすると、1999年ってもしかして、この国で「他者の集合体」即ち「皆」が壊れ始めたタイミングなのかな、だから虹色バスは…という話は流石に今は持て余すのでまたの機会にしましょうか。
それにしても。U2が三人称の音楽で、U3 MUSICの人が二人称の音楽だなんて奇妙な捻れ方をしているものだな。面白いもんじゃわい。