無意識日記々

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あなたがた型

二人称の音楽をPopsに持っていくのは難儀である。不特定多数を相手にする三人称は、最初から相手が仮想的な存在だ。勝馬に乗る、という表現をしたように、それこそ皆が趨勢を見定めながら動く為、誰の内面にも依拠しない勝馬がせり出してくる可能性もある。それを見極めるには、日本語的にいえば"空気を読む"能力が必要になってくる。

一人称では、相手は実在している。自分自身だ。自らの感性に妥協しない事もまた熾烈を極める所行である。他者の目の無い所で妥協の誘惑に打ち勝つのは難しい。だからこそアートにはリアリティが宿り、Popsはどこか浮き足立っている。集団とは幻想の共有で形成されるのだ。

二人称は、そのどちらにも属さず、且つ両方の性質をちょっとずつ備えている。ただ、それを大衆音楽として昇華させるとなると、本来ある1人の実在として想定されるべき"あなた"が一般化され抽象化され得なければならない為、そこの処遇が難しい。それが他の難儀との差だ。

ひとつの方法論は、徹底して具体的な"あなた"を列挙していく事である。身の回りの人、友人、家族、テレビで見た有名な誰か、そして名前を覚えてしまったファンの1人々々に至るまで、1人々々に伝えたいメッセージを思い浮かべ、それを要約していく作業だ。最終的にそれが一曲の歌、一枚のアルバムに収束すればOKである。仮想と実在の中間を相手にする作業だ。

と、いう風なプロセスを想定している為、ヒカルがこの5年でいちばん疎遠になった"会って話した事もないのにずっとこっちを見ている(気持ち悪い(笑))ファンという謎の種族"との対話の展開が難しくなっているのでは、という話だった。それすらすっ飛ばして、家族との対話だけで普遍性まで辿り着いてしまう事をヒカルには期待してしまうところだが、はてさてどうなっているものやら。

1stアルバムで、その、"ファンからの目線"のない状態での曲作りを経験しているから、ある程度は大丈夫だろう。それと同時に、今までに浴びせ続けられてきた"大衆の目線"、"ファンの目線"の無い状態を、不安ととるか解放ととるかで大分違ってくる。Hikaruにとっての、歌の中の"あなた"は、今度はどんな人になるのだろうか。

なお、歌詞に出てくる単語としての"あなた"は、多くの場合直接的には我々聴衆の事を指さない。その話は長くなるのでまたの機会という事で。