無意識日記々

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途轍もなくややこしいあなたの話

ちょっと難しい話をしているが、更にここから難しくなる。覚悟。

歌詞の「あなた」にはとても大きく分けて二種類ある。「君」でもいい。要はYouである。

ひとつは、聴き手が歌い手に感情移入して「私」になって歌う「あなた」。聴き手はそれぞれの思い人を頭に心に思い浮かべて歌を聴く。或いはもう自分で歌っちゃおう。

もうひとつは、聴き手の方が実際に「あなた」になるケース。つまり、歌い手がそのまま「私」になって、こちらに何か言ってくる歌だ。

前者は大体ラブソング、後者は応援歌やメッセージ・ソングになる。

ヒカルの場合後者の例が少ない。どちらかというと歌詞がストーリーテリング的だからだ。その数少ない中の代表曲は当然「応援歌のパロディ」“Keep Tryin'”である。『とっても気にしぃなあなたは少し休みなさい』は、ヒカルが我々に送るメッセージだ。お父さんお母さんお兄ちゃん車掌さんお嫁さんに贈るKeep Tryin'のメッセージね。ただ、キメのフレーズの『あなた』は…という話は後に回そうかな。

ちょっとした変形もある。Deep Riverだ。『全てを受け入れるなんて しなくていいよ 私たちの痛みが今 飛び立った』―本質的にはこれはヒカルが自分に言い聞かせているものだが、形式的には我々に歌いかけているという意味で応援歌やメッセージソングに近い。『私たち』は『私とあなた』或いは『ヒカルと僕ら(聴衆)』である。

ただ、Deep Riverには他に『あなた』が出てくる場面がある。『何度も姿を変えて私の前に舞い降りたあなた』だ。ここはラブソング的、と言ってもいいが、寧ろもっと象徴的な、神格化された存在、英語でいえば"thee/thy"、日本語に無理やり当てはめるなら"汝"に近い。英語では神格化された対象は三人称より二人称で呼ぶ事を好む。ここらへんは感覚の話になってくる。

先程先延ばしにした話はここで出てくる。Keep Tryin'に出てくるもうひとつの『あなた』、即ち『どんな時でも価値が変わらないのはただあなた』の『あなた』だ。これはかなり両義的である。我々1人々々がそれぞれかけがえのない大切な存在なのですよ、というメッセージソング(そして真の応援歌)であるようにも受け取れるし、歌い手にとって誰か唯一無二の存在(恋人とか親友とか親とか憧れの人とか)に対してあなたの価値は変わらない、という堂々たるラブソングであるようにも捉えられる。ここの見極めは難しい。

恐らく、この部分は両義性自体に価値があるのだ。Deep Riverの『あなた』は『舞い降りる』くらいだから普通の人間とは異なる神格化された存在で故に歌自体が神話的な色合いを帯びている。一方、Keep Tryin'はその神格化された存在が"世俗にありふれている"事を示唆している。

思うに、間にPassionが入るのである。どこか果てしない聖域からまさに舞い降りるが如く『年賀状は写真つきかな』と歌うあの感じだ。Keep Tryin'の"地に足のついた感じ"は当時のヒカルの楽曲制作の順序に対する考察抜きでは語れない。


うぅん、本当にこの"あなた"の話は難しい。しかしもう幾つか例を見ていってみようかな。次回へ続く。