さて、話は勿論こうだ。「私たちは宇多田ヒカルに何を期待しているか、自分で分かっているのか?」
私たち、と言っても読者諸氏の代弁が出来るなどとは私は思っていない。自分自身の期待や欲求すら把握出来ていないのかもしれないのに。兎に角、探ってみよう。
私自身について言えば、ヒカルに期待する事はこの16年で様々な変遷を遂げている。初期の頃はもっとこう、人間的な魅力をどんどん表現していって欲しいと願っていたように思うが、徐々に音楽家としての才能を発揮して欲しいと思うようになっている。
ただ、基本にあるぶっとい部分は全く変わっていない。「友人でも知人でも何でもない我々(ファンという変な存在)に対して何でもいいからアウトプットをして欲しい」という点だ。この期待と欲求は相変わらず不変である。ツイートがあれば嬉しいし、メッセージがあればもっと嬉しいし、新曲を出すとなったらもう。テレビやラジオに出てくれる、インタビューが雑誌に載る。何でもいい。何かがあればいい。
これはかなり広範な期待と欲求である。この希望を、私が間違えて解釈している事があるだろうか。つまり、新しいツイートがあっても嬉しくなれなかった、というような事態はあったのかと。今のところヒカルのツイートを読んで「あれ?」と思ったのは一度しかない。素直に「これホントにヒカルが書いたの?」と思ったのである。
その一回がどういうものであったかはこの際どうでもいい。どれでもいい。ただ、"何でもいい"と言いつつも、やはり私の中に「ヒカルらしさ」のイメージが形成されていて、そこから離れた発言にはやはり違和感が出るのだ。即ち、何でもいい訳ではなく、やはり何か特定の傾向を期待しているのだ。
この件に関しては、別の見方も出来る。ツイートは文字である。ヒカルが目の前で話している訳ではない。したがって、例えば何らかの手段でアカウントが乗っ取られてヒカルじゃない人間が呟いている可能性もゼロではない。だから、ほぼ無意識のうちに私は常に「これはただの文字なのだから」と自分に言い聞かせているのかもしれない。その可能性はある。つまりこれは期待するイメージ云々というよりは、もっと一般的な、物事を批判的に捉える私の態度と意志の現れに過ぎず、従って、例えば、ツイートと同じ事をヒカルが目の前で話してくれたとしたら、それはそれで私は嬉しかったのかもしれない。
ただ、もしそうだとしても、ヒカルとしては複雑な気分だろう。どんなアウトプットがあっても喜んで貰えるというのは、自身の労力を否定されているようなものだからだ。何も考えていないただの呟きと精魂込めて作り上げた新曲に対する反応が同じだったらかなり悲しい。やはりそこは、中身を見てよという事になる。
こんな事を書いている私は、多分、「ヒカルの期待と欲求に応えたい」という欲求がいちばん強いのだ。ヒカルが、こういう曲を書いたらこういう反応が欲しい」と思っている反応が欲しい、或いは、こうボケたらこうツッコんで欲しいとヒカルが思っているようにツッコみたい、そう日々考えている。相手の欲求に応えたいという欲求を持っているのだ。
だとしても、では、今度はヒカル自身が自身の欲求をわかっているかという話になる。ヒカルはいつもあんパンを食べたいと思ってあんパンを食べたら必ず満足出来る人なのだろうか。そうならよい。もしそうでなかったら私は、ヒカルが自身に対して何を欲求しているかわかってなかったらそれを告げてやりたいと思っているのかもしれない。
うむ、ここまで来ると暗中模索五里霧中だな。
要約するとたぶん、ヒカルと私たちは、お互いを満足させ合いたいと思っているのだ。満足は英語でいえば、そうね、Happinessだな。Goodbye Happinessは、そういった関係に暫しのお別れを告げた歌だった。要するに私たちは、ヒカルが居ないと満足できない。これは、たぶん、じゃなくてきっと正しい。ヒカルが復帰した時に、その事を体の芯から心の底から思い知る事に致しましょうぞっと。