無意識日記々

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無知と悪意と居ない敵

前にも触れたが、最近とみに「無知を悪意と捉えて相手を攻撃する」風潮が増えている。専門家同士の議論であればまだ無知を怠慢と糾弾する事も出来ようが、それを悪意と直結させるのはそれでも早計だ。疑心暗鬼からくる防御反応なのだろうし、早いうちに敵の芽を潰すという戦略的合理性が発生する場合もあるので全否定は無茶にせよ、そもそも無知な相手は狡猾に懐柔して味方につけるのが基本である。その気配も無いのであればそれは単なる戦略性の欠如だ。それはまたナイーブネスの反映でもある。ややこしいが、敵は作らないにこした事はない、というこどもでもわかる事を実践するのは、確かに難しく、隘路に陥るのを一瞥して去るしかない。弱い心に自らつけこむ自己還元型宗教だからだ。縮めて妄執という。被害妄想である。若い世代はあらかた平和が当たり前なのだ。

それは、ここ5年アーティスト活動を休止していた人を取り巻く環境に対してもいえる。宇多田ヒカルを知らない世代が出てくるのだ。当然ながら知らない事に悪意などない。知るには理由とキッカケが必要だが、知らない事に理由などない。世界はほぼ知らない事で出来ているのだから。知っている方が珍しい。

そこには、通常のジェネレーション・ギャップではなく、ただ単に知らない事からくる認識の齟齬が生まれる。幾ら過去に偉大な業績を上げていようと、価値観の違う人には凄みが伝わらない。

卑近な例を挙げれば(現実にはそんな例は少なかったろうが)、「宇多田ヒカルの歌い方って倉木麻衣に似てるね」と言われたらどうか。倉木さんは今日も元気に活動している。歌い方も変わったけれど、そう言い出す人が居ても何ら不自然ではないだろう。しかし、15年前の事を知っている人がこれを言ったと解釈すると皮肉や風刺と捉えられかねない。斯様に、無知と悪意は似た出力をする。大人はあまり言うべきでは無い言葉だが、だから、若い世代が「悪気はなかった」と言うのなら、嘘だろうが何だろうが一旦受け入れるべきだろう。

若いと見栄を張りたがり、自ら無知を悪意と置き換えたがるバイアスもかかりかねない。それを防ぐ為にも、知らない事は恥ではないという土壌を作り上げておく事が大切である。まぁ大抵の場合は「知らなくて何が悪いか」と開き直ってくれるだろう。それでいい。

これだけ情報が溢れる世界だ。無知を相手に糾弾してる暇なんぞ金輪際無い。知らないならさっさと教えて次のステップに行くべきだ。それもせわしい話だが、わざわざ喧嘩をふっかけるのはもっと面倒、寝てた方がマシである。無知は悪意ではない。知らしめて懐柔するチャンスなのだ。面倒事と思うなら捨ておけばよい。戦略もなく噛み付くのがいちばんいけない。敵なんて、大抵が自分の中の妄想でしかないのだから。