無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

市場に私情を挟まない話

世の中の「出力の頻繁な人たち」と比較するとヒカルは如何にも寡黙に映る。プライベートとパブリックを分けているから、と言ってしまえばそれまでだが逆からみると、ヒカルはそういう「出力の頻繁な人たち」の存在に頼らない生活をしているんじゃないかと。

出力が多いと入力も多くなる。即ち「交流が盛ん」な状態になる訳だがヒカルはそういった文脈に居ない。卑近的に言えば、毎日Twitter読んでたらそこで言いたい事も出てくるから毎日書く事になる、と。読むのと書くのはセット、入力と出力はセットなのだ。出力が頻繁な人は入力もまた盛んである。

多分、ヒカルはあまりそういった入力を入れていないのだろう。ネットサーフィンをするよりじっくり読書をするとか、人と会う機会も手広く浅くより決まった人と決まった時間にだけ、とか。その入出力ペースに慣れてしまえば、寡黙と言われる状態は寧ろそれが自然なものだと気付く。我々の方が"毒されて"いるのかもしれない。

何より、ヒカルは自分で何かを作る。人は「何か面白い事ないかな〜」となった時スマートフォンをいじり始めたりテレビをつけたりするが、ヒカルの場合ノートを開いて何か書き始めたりキャンバスに向かったりする。入力も必要だがそれ以上に自分からの出力が大きい、と。

これはまぁ芸術家肌の人間なら普通の事かもしれないが、大衆文化と向き合う人間がこれをしてしまうとズレる。普通の人に向けて何かを享受せしめんとするならば、その普通の人の感覚がでんなものかを知らなければならない。どれくらいの頻度で歌を聴くかとか、スマホゲーは何が流行ってるのかとか、肌感覚で知っておく必要がある。

とはいえ、それを日常にする必要もまたない。「一度やってみる」だけで十分なケースが殆どだろう。ヒカルはそこらへんの嗅覚が鋭いだろうから、要領さえ把握してしまえば空気は読める。

でもそれは、そのままでは歪みである。市場で商品をシェアし合うのは近いライフスタイルの者同士なのだ。今私が想定してみた(真実である保証はまるでない)状況は、売り手が買い手にならないケースである。確かにそれもまた市場の特徴、いや、本質ですらあるのだが、毎度言っているように製作者が一番目の消費者でないとすると、そうだな…損、だな。仕事だからと言ってしまえばそれまでだけれど、それを繰り返してるといずれ歪みが溜まっていきやしないかとは思うかな。