無意識日記々

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ただただ単に、時間がないだけ。

葉加瀬太郎高嶋ちさ子を擁護して炎上しているとな。曰く、「あんな美しい音楽を奏でる人が悪い人の筈がない」とか何とか。

どうしよう。こういう話題食い付いた方がいいかなぁ。葉加瀬太郎といえばBS「真夜中の王国」でCubic Uを取り上げてくれた時のホスト役で、後にはヒカルのCDも買っていると発言しているのでまぁあれだ、彼を擁護する発言でもしようか。

クラシックの演奏家といえば世間からズレている事で有名である。向こうの世間からみればこちらがズレているだけで、まぁ相対的なものだが、流石に音楽性と演奏家の人格の間の相関についての議論なんて中高生の間に通過しておいて欲しいものだ。

が、そんな暇は彼らには無い。彼らが言うには、朝から晩まで、それこそ盆と正月以外は、いや盆と正月すらも潰して練習練習また練習なのだ。こちらの世間の常識とやらにかまけている時間なんてない。クラシックの演奏家の人格に問題があるのは、ひとえにそんなものを要求されないコミュニティーで育つからであり、更に他のコミュニティーに関心を払う時間なんてない事が原因である。高嶋ちさ子の教育方針やネットリテラシーに問題があろうが、葉加瀬太郎の発言が世間一般の中学生以下にしか見えなかろうが、彼らの人生においては低いプライオリティ(変な表現だなこれ)しかないのだから仕方がない。まともに教育できたって穏当なツイートが出来たって演奏の巧拙にはほぼ一切関係がない。彼らがそれを身をもって証明してくれている。

こうなるのは、クラシックの世界での教育の手法が極めて精密に成熟しているからだ。過去のノウハウの蓄積が膨大な為、やるべき事がありすぎる。練習漬けの毎日でないと競争に勝てない。権威化する一因である。更に言えば、故に彼らにはそもそも音楽的な才能が欠けているのだ。それを猛練習によって補っているに過ぎない。故に人格が歪むという事もある。自分の本来の能力以上に技能と地位を得てしまうと、驕りや侮りが生まれる。周りが馬鹿にみえる。まぁそれも仕方あるまい。

擁護になったかな。うむ。

「音楽家」でひとくくりにすると誤解が沢山生まれる。例えば「美しい音楽を演奏する才能」と「多くの人から共感される歌詞を書く才能」では求められるものがまるで違う。クラシックの演奏家たちは作詞する機会なんてないし、ましてや何十万人から"共感を得る"なんて必要がない。

逆に、Pop Musicianのトップクラスは何らかの意味で人格者でないと務まらない。それはそれは沢山の人たちから協力を得て事を運ばねばならないのだから人間的魅力がないといけないのである。耳のいい審査員がずらりと並ぶコンクールを勝ち上がる所から始まるクラシックの演奏家たちとは違う。いや勿論Popsにもコンクールはあるけど傍流だ。それに、デビューしてからが勝負だしな。

ヒカルのように、人間的魅力と音楽家としての多彩な才能がある人間は稀である。奇跡である。そんな希有を持ち出して音楽的才能と人間性には相関があると論じても一般的な結論は導けない。我々はただただ幸運を感謝する他ないのでした。やれやれ。