無意識日記々

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鶏が先か卵が先かみたいな話

最初の方で「『花束を君に』はメロディーが先で、『真夏の通り雨』は歌詞が先だろう。」と推測したが、話はそう単純ではない。

推測自体、基本的な見解は変わらない。それぞれの音楽的動機(モチーフ、主題)は、確かに『花束を君に』ではメロディーが、『真夏の通り雨』では歌詞が、それぞれ先に生まれた事だろう。しかしそこから完成に至る迄には様々な紆余曲折がある。

例えば『光』と『Simple And Clean』では、日本語の歌詞と英語の歌詞に合わせる為サビのメロディーを違(たが)えている。前に少し解説したが、浮き足立つ歌詞の『光』と落ち着いた歌詞の『Simple And Clean』では、確かにサビを違える方が似つかわしい。作詞作曲両方を手掛けている人ならではの解決策である。

『テイク5』のようなケースもある。そもそもこの曲では通常の意味でメロディーに歌詞をつける事を諦めたというのだ。開き直って詩として言葉を載せたと。無理!と言ってしまうのもひとつの方法論なのだ。

歌詞を先に書いた最初の曲は『誰かの願いが叶うころ』である、というのが定説だ。では、まず歌詞を書き下してそれからメロディーをつけたのかとなるのだが、恐らくそうではないだろう。何故なら、この曲はメロディーに幅がないからである。極端に言えば2つしかない。普通、歌詞が先に出来ているならこんな風にはならない。

実際の所は例えばこうだろう。サビの『あなたの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ』という歌詞がまず出てきたとして、そこにメロディーをつけてみる。そうして出来たメロディーに、今度は違う歌詞『あなたの幸せ願うほど わがままが増えてくよ』とか『小さな地球が回るほど 優しさが身に付くよ』とかの歌詞をつけていく、そんな過程を経ているのではないか。詞を書いて節を書いて、節を書いて詞を書いて。そんな風にいったりきたりしながら曲を書いているように思える。だからこそ『光』と『Simple And Clean』のようなケースも起こり得るのだ。


そこでふと思い出す。ヒカルが『花束を君に』と『真夏の通り雨』の2曲で気に入っている歌詞の話だ。ヒカルは次の二節を挙げた。

『世界中が雨の日も
 君の笑顔が僕の太陽だったよ』

『勝てぬ戦に息切らし
 あなたに身を焦がした日々』

これ、もしかしたら、両方とも、「他のパートでは既にメロディーと歌詞が両方出来上がって組み合わさっていて、さて今度は別の場所に同じメロディーで違う歌詞を書かなくちゃいけない」という制約の基に生まれた一節なのではないだろうか。苦労しただけに思い入れも一入という訳である。

確かに、

花束を君に贈ろう』

から

『世界中が雨の日も』

まではかなり距離がある。文字を見ただけでは、とても同じメロディーがつくとは思えない。

『夢の途中で目を覚まし』

から

『勝てぬ戦に息切らし』

も同様である。とりわけ、そういった作業の中でも「我ながらうまくハマったな』と喜んで自画自賛したのが、挙げた二節だったのかもしれない。

まぁ、実際のところはわからないがな。今日ヒカルに同じ質問をしたとしても同じ答が帰ってくるとは限らないし、同じ答だとしてもまた違った理由かもしれないし。ただ、作詞家という人種は、そういう理由で歌詞を気に入ったりそうでもなかったりするものじゃないか、と頭の片隅に置いておいてもよいのではないか。そんな風に捉えておけばいいんじゃないだろうか。それにしてもいい曲だよね〜、2曲とも。(何度めだw)