無意識日記々

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#とと姉ちゃん第61回の感想など

当初から「とと姉ちゃんは雑だなぁ」と感想を書いてきたけれど、昨日の月曜日第61回放送分は流石にその程度では済まない位に酷かった。クレジットをチェックしていないからわからないが、今週分からスタッフが入れ替わったのだろうか。「キャラ崩壊」と言えるレベルで破綻していた。

滝子も君子も清も部長も多田さんも常子もこんな性格だっけ? と多くの人が突っ込んだであろう事は想像出来る。10週も観てきていれば、流石に皆それぞれに登場人物の人物像というものが出来上がっていて、そこから逸脱した行動には違和感を感じるようになる。部長や多田さんがもう今後出て来ないキャラだというならまだ何とかなるが、常子をはじめとした主要人物たちが出来上がった人物像を崩しにかかるのはまずい。一度でも起こったら、今後皆が感情移入できないようになる。

キャラクター崩壊は大抵思いついたストーリーのプロットを実現させる為に生じる無理とみなされる事が通常は多いが、もどかしいのは、プロットを変える事なくキャラクター通りの言動をさせる方法が幾らでも考えつく事だ。戦時下で森田屋が窮地な事を表現する為の給金遅配なら、極端な話君子の方から切り出させたってよい。そこまでいかなくても幾らでも"キャラ的に無理のない"やりとりは幾らでも考えつく。多田さんと常子をビアホールに送り込むのだって一言「前から興味があったんだけど」「いや危ないよ」とか少し距離のある感じを出すだけで、「戦前のビアホールに女子2人で出掛けるなんて有り得ない」という違和感を緩和する事が出来る。実際はもっと丁寧に詰めなければいけないが、しかし、あれだけ予算のあるドラマなんだからそこらへんを疎かにしてはいけない。

視聴者からすれば、大局的なストーリーの矛盾とか非合理的な立ち居振る舞いとかは結構気にならないものだ。いちばん気になるのは、登場人物の「らしくない行動」である。特に朝ドラは、放映が終わった後も暫く主役の役者は役名で呼ばれ続けるほど、ひとつの人格としてキャラクターが認知される。踏み込んで言えば、キャラクターを守る為なら最初のプロットとか題材とか史実とかは幾らでもねじ曲げていい。感情移入できるキャラクターが総てだ。そこを忘れてはいけない。

まぁ、つまり、ストーリーが少々強引だろうと、キャラクターがいきいきとやりとりしてくれればそれでいい。暫く経てばまた新しい登場人物が出てくるようだし、今書いたような細かい事は気にせず、アドリブ満載のコメディタッチのシーンを増やせば観ていて楽しいドラマになるだろう、というのは前と変わらない。あと美術さん頑張ってるっぽいのでもっと映してあげてね。