無意識日記々

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『ULTRA BLUE』10周年記念パピコ

宇多田ヒカル4thアルバム『ULTRA BLUE』の発売日は2006年6月14日の水曜日。即ち本日2016年6月14日火曜日は10周年記念日にあたる。

なので、折角だから感慨深くこのアルバムを振り返ってみようか…と思おうとしたのだけれど、私はその役に全く適任でない事に気がついた。何の感慨も無いんだよ。何も思いつかない。

「2006年から10年経ったよ」と当たり前至極な事を言われた方がまだ「へぇ、もうそんなに経つのか」と驚いてみせる事が出来るのだけれども、『ULTRA BLUE』に対しては、何だろう、時が経ったからどうというのがまるでない。昨日訊かれても明日訊かれても、昨年訊かれても来年訊かれても何も変わらない。何なんだろうね。

『First Love』アルバムになら、少しはあるんだ。嗚呼、90年代中盤から後半にかけての音作りだね、とか。『ULTRA BLUE』にはそういうのが殆ど無い。ヒカルがサウンド・プロダクションのイニシアティヴを握り、冨田謙氏のインプットも散見される程度。古びるとか未だに新しいとかもない。ただただヒカルの音だ。他の作品と較べれば若干シャキシャキふわふわしてるかな〜という感想は出てくるが、それはアルバムの個性の話であって10年の時の流れと結び付けるのは難しい。

何より、私は、「10周年だからひさしぶりに聴いてみた」が出来ないのだ。久し振りに聴く曲なんて滅多にない。たま〜にすり抜けてる場合もあるけれど、どの歌も生活に溶け込んでしまっていて、10年前の曲な気がしない。本当にお馴染みで、美しくて、茶目っ気たっぷりでエモーショナルで…って宇多田ヒカルそのものですね。もっと言えば、このアルバムが無かった頃の生活が想像できない。それは、どのアルバムにも、どの曲にも言える事だが。

だから、10年前の今日(フラゲしとるから本当は昨日だが)が特別な日だったのは間違いない。それを祝うというなら、確かに感慨深い。だが、あらためて聴いてみて何か言える事があるかといえば何もない。10年経っても今まで気づいてなかった音に気づいたりする事もある(『日曜の朝』の『だゆ〜ん だゆ〜ん』は言われるまで気づかなかった)が、それもまた私にとって日常茶飯事に過ぎず、特別な感慨には結び付かないのだ。

無理矢理なら、できるか。今の歌と比較すれば、確かにスケールはやや小さいようにみえる。買った当時は「スケールがでかくなったなぁ」という感想を持っていたのに、今ではそれがこどもっぽくすらある。また、歌が雑に聞こえる。歌唱のパターンも少ない。そういう風に捉えたら、「10年で随分成長したなぁ」と言う事も出来る。これは感慨と言えそうだ。

が、わざとらしい。人工的だ。それは、敢えて昔の歌と今の歌を比較して聴くからそう思うのであって、普段ある歌を口遊んでいる時に他の歌の事を思い浮かべるなんてない。それで生まれる感慨というのは、単に、最近新曲を聴いた時に「凄く歌が巧くなってる!」と感動したのをただ読み替えただけだ。即ち、それは新曲の感想であって10年前の歌に対する感情じゃない。比較せずに、ただ聴けば、相変わらず素晴らしい。『Passion』の無い人生なんて考えられない。将来自分が認知症になったら、自分の名前は忘れてもこの歌の名前は覚えているかもしれない。そういう曲の入ったアルバムなのだ。10年なんて、そう、どうでもいいのである。本当の記念日は、10年前の今日なのだ。それだけの話である。唯一、今日に意味があったとすれば、この話をしようと思い立った事位か。だから大事なのだな、結局は。

SCv2に入ってない曲もいつかハイレゾ化して欲しいが、それはまた15周年や20周年に期待しますか。今は、今まで通り、普段の生活の中で、相変わらず『ULTRA BLUE』を愛で続ける事に致します。正に名盤。