無意識日記々

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もう幻

今日は藤圭子さんの命日だが、なんとなぁく御本人があんまり自分の事を大々的に思い出して欲しくないっぽい人だったので、片隅の方でこっそり偲ぶ事にする。

故人の記念日としては生誕日と命日の2つがまず考えられるが、生まれた日を祝うのは身内で、社会が関心があるのは命日の方だ。生まれてきた時はまだただの何も成し遂げていない赤ん坊でしかなく、生まれてきた事を喜ぶのは身内しかいない、或いは、誰が生まれてこようが全世界の人が祝うだけだ。試しに道を歩いている人に訊いてみるといい、「今日うちにこどもが生まれたんですよ」と。殆ど全員が「そ、それはおめでたいですね。」とか言ってくれるから。うむ。

人が何かを成した後に訪れるのが命日だし、報道もその時集中的に行われる。人々の記憶に残るのもその日付となる。藤圭子がどんな季節に生まれたかは知らなくても、彼女が夏の暑い盛りに亡くなったのはかなりの人が覚えている…と言いたかったが冷房の効いた部屋でテレビ観てたとしたらあんまり記憶と結びつかないかもね。まぁそれはいいんだけど。

降り止まぬ真夏の通り雨が降り始めたのが3年前の今日だと思うと、まるで遠い昔の事のように思える。歌に刻まれた感情がリアルだからだ。何かが、そこに移った。そう感じさせるだけの楽曲である。更にそれすらもまた、5週間も経てばアルバムの中の一曲として消費される。

芸能人の訃報もまた日々消費される情報のひとつでしかない。しかし、誕生日を祝っていた人たちにとっては、かけがえの無い人が喪われた日だ。地球が太陽の周りを大体3回くらい回って、太陽系的には大体同じ場所に戻ってきている日だが、銀河系的にはもうここは全く違う場所だ。そういう意味では、ちょうど3年という数字が何だという事もない。銀河の月日は巡らない。ただ過ぎ去るのみだ。

ただ、今ここの、季節は巡る。また今、同じではないにせよ夏が巡ってきていて。しかし、『真夏の通り雨』が響く夏を、我々は初めて過ごしている。ここに心を封じ込めてヒカルは次に行けたのか、まだこの歌の心が心にくすぶっているのか、まだちょっと見えていない。『花束を君に』を聴く限りでは、手放してはいないが解き放たれてはいる、という感じはするのだけれど。

道端でプジョーのタイヤホイールを拾って(!?)はしゃいでいるのをみると、何だろう、いつも通りなのかな、と思う。散骨した骨がもう戻ってこないのそのままに、彼女との日々は戻ってこない。今はもう幻のように、見えはするが掴めない。供養するとしたら、圭子さんの歌を歌うなり奏でるなり、それで十分かな。控えめに偲ぶ。日々は続くのだから。