無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

読む物に直ぐ影響される書手の文

荒野のおおかみ」はちょうど3分の1を過ぎたところ。この時点での感想は「この最初の3分の1全部要らんのとちゃうか」。読み終わる頃にどんな感想に変化しているかお楽しみ。「いや、要ったわ」に、なっているのかな。

本日の東日本は雨風だらけで、真夏の通り雨というには派手々々し過ぎたようだ。しかし、アルバムの発売までもう後5週間なのである。何だろう、すべてが、ひたすら甚だしい。


あぁ、もうひとつ、3分の1の感想を書いておこう。読み始めの時は読み終わるまで何も書かないつもりだったが、気が変わった。長編小説の感想なんて、書いておかないと総て忘れる。

9年前か、『Flavor Of Life』の時だろう、ヒカルが「とびきりの笑顔でさよならを告げ振り向いて歩き始める頃にはもう真顔」みたいな事を言っていた覚えがある。「荒野のおおかみ」は、そういう話なのだろうか、と。

、なんていう感想。


タイトルからの連想を連ねてきて、どうしても「Pops」にならない"危機感"みたいなものが湧いてくる。しかし、それは私の感情ではないので、わざとらしい。それを期待している人たちの代弁という以上に、言語化である。理解できない音楽性に対して語る言葉を持てるのは稀である。語れるのであれば、既に理解は手中にある。勿論、罵詈雑言は、理解どころか、相手がそこに居るか居ないかすら理解できない状態でも発せられるので、常に可能だ。とはいえ、生きて生活している人間相手だと一度び思えれば非人道的な罵声にはついつい理性が掛かってしまうのだから、本当は不可能なんだけども。

それはいいや。書いてしまえば、誰かの言葉に成り得る。第一、自分の言葉なんて無い。一言一句、他の誰かが使った事のある言葉で構成されているのだから、私だけの言葉なんてどこにもなく、総てが、誰かとの言葉である。私は必ずどこかの誰かから言葉を学び、私の発した言葉もまたどこかの誰かの学びとなる。勿論最初に生んだり変えたりした人も居るだろうが殆どは誤解や無理解で言葉の意味は入れ替わる。突然変異で進化する様はまさに遺伝子のようだ。遺伝子は、必ず過去の誰かの何かなのだから。

なので私は、わざとらしかろうが自分でない言葉だろうが書き綴る。境目など、無い。総てがゆるやかに繋がっているし、純粋な発明や発生は極々稀だ。私の書いた事を、おおいに誤読して欲しい。私だって私が何を考え何を感じているかなんてよくわかっていないのだ。その意味で、私は私が書いて伝えたいことが何かを知らない。ただそこに言葉があり、読んだ人がただのガラクタ以上の何かを心の中に浮かべたなら、それで十分だ。ガラクタも好きな私では、あるのですが。

論争などしない。歌詞に至っては、それは歌った人の、歌っている人のものだ。歌には今があるのだから。奏でられる、歌われる今が今だ。それ以上は必要ない。しかしそれ以上を持つから、歌に対して私は予め控えていなければならない。同じタイトルの小説を読んだり映画を観ようとしたりするのは、そういう理由からなのである。