無意識日記々

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男女便宜談義

やるじゃんヘッセ。残り8分の1。さて、どう〆てくれようか。まぁ今夜もそれは置くとしよう。読み終わるまで待つ。

さて。男女というのはどこまで行っても社会的な、便宜上の区別でしか無い事をもう一度強調しておこう。それは生物学的な雌雄を人間の場合に言っているのであって、確かに社会的側面はそこにあるけれども根底には生物としての、生身の、物理的な雌雄の区別は厳然としてあるだろうに、と健全に正しく指摘されそうだが、それも実は間違いだ。

区別。あらゆる個体を、人から生まれた人を、染色体でも骨格でもホルモンでもいい、何らかの生理学的或いは生化学的若しくは物理的な基準を用いて男女に判定できるというのなら、男女には社会的以上の意味を持たせる事が出来る。しかし、それは偽だ。数は少ないが、男か女か判別できない個体は存在する。即ち、そんな基準は(目一杯譲歩したとして"今のところは")存在しない。それを無理矢理、学校や書類で男女に区分けするのだから男女とは社会概念以外の何ものでもない。

それは、例えば未成年の飲酒を禁じる法のようなものだ。これも本来は、個々の個体に関してアルコール摂取の危険度を判定して適量(零を含む)摂取を促すのが道だ。即ち、年齢は一切関係無い。勿論統計をとれば未成年の方がアルコール摂取に関して危険度が高いという調査結果が出るかもしれないが、統計は実在しない。ただの数字であり、個々の個体の健康がアルコールとどう連関しているかについて何も語らない。即ちこれも社会秩序上の効率性を目的に便宜上年齢という大層おおざっぱだが確実な基準を用いているに過ぎず、やはり社会的以上の意味はもたない。繰り返す。統計という個体は実在しない。抽象的なモデルであって、現実を知る為の助けにはなってもそれは常に不十分なのだ。

そういう意味において、男女の性差など幻想である。誰も完全に男ではなく、誰も完全に女ではない。

反論として、次のようなものも在るだろう。精子で授精させれたら男だし、卵子が受精したから女だと。妊娠出産したから女だと。そういう基準は論理的には有り得るが、私個人の感覚でいえばその定義には違和感がある。不妊治療を頑張る夫婦は男女ではないのか。もし人が必ず男女に分けられるなら彼らは人ではない事になる。私には有り得ない。だが確かに、それは趣味の問題かもしれない。私は認める気はないが。

ならば、と「男」と「女」に加えて「第3の性」を作ればいい、となるかもしれない。それもまた論理的には有り得るが、私にはしっくりしない。半陰陽は多様である。第3の性を定義するには「男でもないし女でもない」と否定の集合即ち補集合として定義するしかなく、ならば不妊者を人ではないと切り捨てるのとどう違うのか。結局は同じになる。

やはり、男も女も実在しないと考えるのが妥当だろう。それは誰にも当てはまらない抽象概念に過ぎず、統計や社会や秩序といった人工的な目的に添って援用されるモデルに過ぎない。「男らしい」「女らしい」に至っては、ほぼ社会の都合である。男性ホルモンを投与したら男性的に、女性ホルモンを投与したら女性的になる、というのは確かに真実だが、それこそまさに男性や女性というのが概念そのものであるという証左だ。東に進む事は誰でも出来るが、東を目の前に持ってきて指差せたり持ち上げたり出来るヤツは居ない。男女は便宜なのである。

何の話してるんだ俺。また次回。