無意識日記々

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これがホントの"ブレス・ケア"

まだ『Fantome』の総括もまともに出来ていないのにもう次回作への心の準備に取りかからなければならないというのは何という贅沢な因果だろうかな。場合によっては『Fantome』一枚を5年位かけてしゃぶり尽くしてから次の作品を、というリズムでもよかったろうに、移籍したからかその為に移籍をしたのか、もうこうやって「今年中には新作を出す。来年はツアーだよね。」という空気が出来つつある。待って待って、まだ腹減ってないかも(笑)。でも、この食事は「食べれば食べるほどもっと食べたくなる」終わりのない加速装置なのかもしれず。

私の場合は「もうここまでスケールが大きかったら消化しきれない」とやや白旗をあげつつあるのが「腹減ってないかも」に繋がっている。でもじゃあ誰ならヒカルをしゃぶり尽くせるのかというと、誰か居るんかいね? 知らぬ。

歳のせいにしたいが、出来るだけやってみよう。

『Fantome』は様々な成長と進化を内包していたが、やはり最も明快だったのは歌唱力の向上だろう。まさか自分も、昔のヒカルの歌を聴いて「雑」に感じるようになるとは夢にも思わなんだ。

特に「語尾」の差異が激しい。昔はそこにまで集中力が行っていないというか「残心」が足りない、という感じで、なんとなくとっちらかっていたのを今は見事に綺麗に位相を揃えている。いや、それを言えるのも今に至ってからの事であって昔はとっちらかってるだなんて気づきもしなかったんだが。何度も言うけれど。

そうやって語尾をごくごく丁寧に歌う事で生まれてくる"副作用"に気がついた。ヒカルが歌う時のブレスのバリエーションが増えているのだ。

ブレスは文字通り息継ぎだが、そうであるからには基本的に言葉と言葉の区切りに在る時間を埋めるものだ。即ち、語尾と語頭の狭間に置かれた存在なのである。従って、それはメロディーの隙間を埋める役割も、担わせようと思えば担わせられるものなのだ。

具体的にみてみよう。やはりここは、歌手宇多田ヒカルの新時代を象徴する楽曲『真夏の通り雨』を取り上げてみたい。


冒頭の『夢の途中で目を覚まし』の前に、普通のブレスが入る。というかここは普通にならざるを得ない。先行する節が何もないからだ。黙っていたところから(或いは深呼吸をして)歌い始める、その時のブレスだ。最もニュートラルなブレスと言ってもいい。実際、ひらがなで近似しようとすると「"すー"とも"ひー"とも"はー"ともつかない音」とでも言えばいいか。これは、都合がいい。冒頭に基準となるブレスを入れてくれているのだから。後のブレスはこれと比較していけばよい。

次の『まぶた閉じても戻れない』の『ま』の直前でまたブレスが入るが、今のヒカルは語尾に残心がある為、『覚まし』の『し』から棚引くビブラートも最後の最後まで集中を切らさない。よってブレスの位置ギリギリまでビブラートの余韻が響く。更に次の立ち上がりは『瞼』の『ま』。その中でのブレスだから響きは『ひーは』のような感じになるイの音からアの音への移り変わりをブレスが橋渡ししているのだ。勿論昔の歌唱も同じようになっているのだが、今のヒカルはこのプロセスをかなり意識的にコントロールしている為ブレスに昔のような「突拍子の無さ」がなく、言葉と言葉の繋がりが滑らかに(それこそシルクのように)響いている。

次は『瞼閉じても戻れない』と『さっきまで鮮明だった世界』の間のブレスだが、これが一番目のものとも二番目のものともまた違った響きを持っている事は、そうね、ハイレゾで聴く方がわかりやすいかなこういうのは。寧ろこういう時にこそハイレゾで聴きませう。

で、その響きの違いだが、まず押さえておきたいのは、ヒカルがギリギリまで語尾の余韻を大切にする為、音程と発音の両方の遷移をブレスが担う事になるのだ。母音同士、イとアの音(とそれに合わせた口の形、喉の使い方)を繋げるブレス。音程同士、ドとミを繋げるブレス。どちらもひとつのブレスがその役割を担う。従ってそこには言葉と音程の差の数だけバリエーションが生まれているのである…

…で、とそこからの続きを書くつもりだったのだが流石に今夜はもう長くなり過ぎてしまったのでここらへんで。続きはまた稿を改めまして。