無意識日記々

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歌詞可視化結晶化の化身"歌詞集"

先週「耳の聞こえない人たちに対する気持ち」を書いたが、宇多田ヒカルの歌詞集は彼女たちに届くのだろうか、という興味がまずある。音楽を聴く習慣がなくても、宇多田ヒカルという有名人が居るらしい事は知ってくれているかもしれない。我々の年代ならほぼ知っている。しかし、後天的であれ先天的であれ、歌詞なんてものに興味を持ってくれる人も居るかどうかは未知数だ。

それに、現実的な話だが、出版は先日から20周年コラボレーションを展開しているM-onの関連会社のようだ。となると流通が音楽系、即ち店頭販売がCDレコードショップに偏る可能性もある。街の本屋にふらりと立ち寄り平積を目にする、というのがないかもしれない。これは単純に私が知らないだけなので、あとで調べておこうかな。いずれにせよ今のうちに予約注文しておけばいい。本屋にいってスマホをみせたら受け付けてくれるよきっと。

余談2話でした。
では本題。

歌詞の本来の実体は声である。この基本にたてば、書籍に印刷された文字は歌詞ではない。歌詞を文字にした他の何かなのだ。歌詞はメロディーを伴って初めて歌詞になる。メロディーから外れれば散文詩の朗読と変わりがない。

なぜこれを強調するかというと、文字にした歌詞に「由来や理由のわからない言い回しや語尾や単語の選択」があるからだ。『光』のサビの冒頭が『ずっと』なのは音が跳ね上がるからだし『もっと』は音が下がる。英語で同じ場所を『When you walk away...』にした為メロディーが異なっている。

正確にいえば、順序や因果関係はわからない。恐らく、歌詞を『ずっと』にしたかったらメロディーを跳ね上げたのだろうと思うのだけれど、もしかしたらメロディーを跳ね上げた後で合う歌詞を探したら『ずっと』だったのかもしれない。しかしいずれにせよ"関係がある"のは間違いない。

勿論それらは総て"成り立ちの話"であって、「なぜここの歌詞はこうなっているのだろう?」という探究心を抱かない向きには用が無い。出来上がっている歌詞をただ味わうのに「それがどこから来たか」なんて考えるだけ野暮な話。ただ歌詞を読んで「いい言葉だな」「ぐっときた」「泣かせるぜ」と感情を吐露するのが全うな歌詞集の楽しみ方だろう。

それでもなお、やはりそれは歌そのものではないと強調しておこう。映画の脚本やドラマの台本、アニメの絵コンテのようなもので、命を吹き込む前の姿、或いはそこに命のあった残り香のようなものだ。「歌」という最終形態の、いち側面、いち射影を切り取った特殊なレシピなのである。或いはだからこそ新しい発見があるだろうし、それについても語る事が出来る。

12月9日土曜日発売というからもう編集・校正は終わっているだろうか。完成品から一部を切り取って貼り付けたものであるからこそ、遠慮なく「作者はこれについて語っていいんだ」と、私はヒカルに言いたかった。出来上がった歌の言い訳は見苦しい。伝える為の努力は総て音にして録音し、そのひとパッケージで伝えきるべきだそれが潔い、と私も思う。しかし歌詞集は不完全な裏レシピに過ぎない。それに対する補足を語るのは寧ろ必要だったんじゃないか、と。今回はもう間に合わないかもしれないが、また20年後位に『あなた』の次の歌以降の歌詞集が出版されるだろうから、その時はヒカルも大いに語って欲しい。いやまだ今回しっかり語られている可能性も残っているからそれには最後まで期待しつつ、ではあるけれど。有名人のコメントも悪くないんだけどね。まぁまずは再来月に歌詞集を手にしてからだ。こういう話はそれからでも遅くない。今の私が早まり過ぎ(笑)。