無意識日記々

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自らの奏でる音に責任と言葉を

そうこうしている間に11月が終わる。12月は忙しくなりそうだ。

オリジナルとは、自分の感覚に責任と言葉を持つ事だ。邦楽(日本の商業音楽)の中には時折、「なんだかこういうサウンドが海の向こうで流行っているらしい」というだけの音を奏でている場合がある。具体例はもう記憶にないけれど。

「らしい」ではダメである。モノマネする事は構わない。魅力を感じ、憧れ、模倣する。イチローみたいにヒットが打ちたい野球少年はバットをぐるっと大きく回したりしたのだ。それでヒットが上手になる訳ではないが、打席に立ち続けるモチベーションは維持される。勝負しなければ何も始まらない。

真似かどうか、似ているかどうかよりも、その音が鳴って、自分の感覚で聴いているかどうかだ。聴いて何かを感じれば模倣から入りもしよう。しかし、いつまでも"音楽的実感"のないまま世界のどこかで生まれてきた音楽を訳もわからず分析だけ上手にして、鳴らす。大事なのは、どうすればそう鳴るようになるか、ではなく、なぜそれを鳴らそうと思ったのか、だ。

その音楽を奏でる事についてはプロアマ問わず責任があるハズだ。誰に対しても何を支払うでもない、音楽的実感がそこにあった、と言葉にする事だ。なんなりと、自分なりの言い方、表現方法で。

深く問わねばならない。なぜあなたはそこでブレスを入れたのか、なぜそちらのパートはウィスパーでこちらのパートはシャウトなのか、なぜそこはロングトーンであそこはスタッカートなのか…。「今流行っている洋楽を聴いたらこんな風にしてた」では、私の心に響く歌は生まれない。私に響かなくても構わないなら別にいいんだけど。さておき、それぞれの「鳴らした音」の「鳴らし方」を説明するのではなく「なぜ鳴らしたか」を説明して欲しい。世界の可能性としてあらゆる音が未だ宇宙開闢以来鳴らされる事なく時が過ぎ行く中、わざわざ万に一つどころでない選択をもってしてわざわざその音を、他の誰の何の音でもないその音を鳴らし音楽を奏でた責任があなたにはある。しっかり自分の言葉で説明できるようになって。


嗚呼、ヒカルさんの場合は総ての歌い回しや歌詞の載せ方に「尋常じゃないほどの沢山の理由」が潜んでいるので、時々生歌を聴いててうざい事がある位(笑)。それ程に細部まで作り込まれ深く検討された音を奏で歌う人だ。自らの感性に対する責任感の強さは他の追随を許さない。