無意識日記々

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耳歌詞と目歌詞

人が小さい頃から「物語」を味わう場合、今だとまずアニメから入ってつぎにコミックやら絵本やら、更にそこから小説などの形態に進むのが大まかな流れだろう。絵の割合が徐々に減って字の割合が多くなっていく。基本的には字が多い方が理解・読解の難易度が高くなり年齢層も高くなっていくだろう。アニメをみるのがいちばんラクで、字を沢山読むのは苦痛だろう。

これが、例えば私の場合、歳をとったら逆になった。アニメをみるのがいちばん体力を使い、字だけを読んでいるのが何よりもラクである。アニメを見るのを疲れたから小説でも読もう、とは思っても逆はない。字を読んでいるのがいちばんストレスというか負荷が少なく、いちばん長く続けられる。まぁここらへんは人によるかな。

Apple Musicを使い始めて歌詞機能の便利さに感心している。オフラインでは使えないのが残念だけど、オンライン(このWi-Fiが基本のご時世にラインもないよなぁ…いやワイヤーって意味じゃなくてもいいのかこれ)でならかなりの確率で歌詞をすっと表示してくれる。いちいち検索しなくてよいのはとても便利だ。

となると、当然の事ながら歌詞を読みながら音楽を聴く、という態勢に入るのだが、これは鑑賞態度(作品の味わい方)として正しいのだろうか、これでいいのかな?とふと疑問に思ったのだった。

ここでは、「耳で言葉を聴く」のと「目で文字を読む」事が同時に行われている。いや、同時は不正確か。どちらかといえば、「耳で聴いた文を目で見て確かめる」というフローが近い。そして、耳では聞き取り切れなかった言葉を歌詞を読む事で補完できる。そこで『数式』なんて言葉使ってくるとは思わなかったよ…。

で、ここでもちょっとした逆転が起きている。本来こどもはまず耳で言葉を聞き取れるようになり、それを文字で読み書きできるようになるのはずっと後だ。しかし、歌を聴きながら歌詞を読む場合、読んで「確認や修正」を行うのだから、読む方がずっと信頼されている…もっと言えば、正確に読み取る方が容易で、正確に聞き取る方が難しい、という順序になるんでないか。

これは普遍的な事なのだろうか? 自分の場合歌詞がまともに聞き取れないなんてしょっちゅうだが、字を間違って読み取る確率はそれより遥かに低い。これは、聞くより読む方が遥かに負荷が少なくラクだからだ。聞く方はかなり集中しないとちゃんと聞き取れないのである。

歌詞を書く人はこの状況をどう感じるか。歌ってもらってる方よりも自分が書き起こした文字文の方が頼りにされている。奇妙なのか自然なのか。歌詞を読みながら歌を聴く人が増えてきた場合、この問題はもっと突っ込んで考えられていくかもしれない。歌われる歌詞と読まれる歌詞。双方を気にする時代がやって来たか。