無意識日記々

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シンプルにシンプが居ない

『あなた』が我が子に向けた歌であるという"種明かし"が早い段階で有ったのは未だに疑問だが、それ以上の違和感といえば、もうこの歌の存在そのものかもしれない、息子を「あなた」という二人称で呼ぶ事だ。

いや、別に「君」でも「you」でも「そなた」でも「うぬ」でも何でもいい、我が子に対して一人称と二人称の存在である事自体に違和感がある。

それはちょっとした偏見かもしれない。シンプルに親父(しんぷ)の存在が感じられないのだ。

Yes, yes. 今時シングルマザーなんぞ珍しくもない。未婚の母とか紙切れ一枚の呼び名である。それについて何かを語ろうとは思わない。人数ではなく、"家族感"(家族"観"じゃないよ)の希薄さが気になるのだ。

母と子は家族である。つまり、そこに父とか兄とか姉とか妹とか弟とか、場合によっては祖父や祖母、叔父や叔母(タラちゃんにとってのカツオやワカメだな)も居たりするかもしれない。いや、血の繋がりのない居候さんも居るかもしれない。そうやって何人も(2人でも3人でも4人でも…)を抱え込める、迎え入れられる感覚、それが"家族感"である。

それこそ、私の家族"感"が間違っているかもしれない。『あなた』に感じるのはそういった三人称的な広がりの無い、一人称と二人称だけの世界だ。父親に限らない。なんだかここには純子さんも照實さんも入り込めない、いや、居ないと言っていい。

もっとシンプルに行こう。二人目を生んだ後、『あなた』はどんな響きになるのか。兄を差し置いてまた「二人だけの世界」を作るの? 幼児退行しちゃうよ? いやそれはいいんだけど、『あなた』を通じてそのまままるで恋愛関係があるかのような歌詞を書き歌うのは、『真夏の通り雨』並みの挑戦では、ある─で、あるからして、その危うさも気にかかる。『真夏の通り雨』に登場する中年女性と若い男性(これが若い女性だったら『二時間だけのバカンス』が女教師と女生徒の百合だという説が力づけられるのだがなぁ)というのは、幾らなんでも架空だろう。『あなた』の"男女"もまた架空だろうから、これは杞憂に過ぎないのだろうけれど、やはり、繰り返すが、二人目を生んだ後にもう一度この歌を聴き直してみたい。何がしっくりきていないのか、まだまだ自分でもよく判らない段階なので。