無意識日記々

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こいあい

テレビで『私の初恋は両親』と繰り返すのは小さく革命的だと思った。なかなか言える事ではない。

近親相姦?と短絡的に考えた脳は脇に置くとしても、即座に恋を愛に変えて『初愛』とした事で一応の納得を得たとは言える。

この、「恋」と「愛」の違いである。「初恋」にせよ「初愛」にせよ英語にすると"First Love"で同じになってしまう。即ち、やや乱暴だが英語に恋と愛の区別はないのだ。日本語特有ともいえる恋と愛の違いとは何なのだろう。

端的に言えば、「恋」とは「乞い/請い」、つまり「乞う/請う」事であり、「愛」とは「会い/合い」、「会う/合う」事だ。日本語は結構単純である。

乞い。乞い願う事。相手を時に強く求め得ようとするのが恋だ。そこには独占的・排他的な匂いが漂う。誰かが誰かを得られれば、他に泣く人が居る。故に失恋は恋の本質であり不可避である。「俺のものにする」とかやや尊大な言い回しだと、愛情というより恋心が勝っているようにみえる。

会う・合う事。愛とは即ち共に在る事だ。距離的・物理的には遠くとも心が寄り添っていれば二人はそこで"会って"いる。同じように喜び合い、同じように悲しみ合う。巡り会って、苦楽を共にする。こと"相"手の心を慮って感情をともにし、時には利他的に、時には利己的に振る舞う事。会わない・合わない相手とは愛を育むのは難しい。分かり合ってこその愛である。

この、相手を求めるかどうか、心を分かち合うかどうかが大きな違いだ。失恋は恋に不可避だが、愛は必ずしも失わなければならないものではない。博愛というように、数多の対象に対しても使う。一方複数の相手に恋心を抱くと「恋多き」ならまだましで、時には道徳的に糾弾される。奪い合いで一人勝ちになるからである。

愛は分け合える。奪い合うものでもない。気のありようの問題だから。合うか合わないか。もうそれだけなので心が気が合えば幾らでも輪が広がる。恋が椅子取りゲームなら愛は力を合わせて椅子を新しく作るゲームだろう。


私の「恋」と「愛」の感覚はこのような感じ。

となると、ヒカルが両親を『初恋』と呼んだその感覚は何なのか、だ。もうシンプルに、親が「恋い焦がれる/乞い焦がれる」対象だったというのが結論だ。失恋が恋の本質であるのならば、ヒカルは常に両親を失う不安に駆られていた、と。だから親に恋をしていたという言い方が出てくるのだろう。

ここからは多分に妄想の割合が多くから気をつけてね。なお座談会の話はアンケート結果を見て一旦幕引きで。